1046ワークス24口

とーしろさんの趣味よもやま話の通用口。

「改めて考える相座武士の答えと、『嘘』とは?『四月は君の嘘』第19話感想・改稿」


アニメ『四月は君の嘘』第19話の感想、改稿文になります。
おつきあいいただけると幸いです。

 

前回、共演によってかをりに
またあんな風に一緒に弾かない?
と自己表現をして、
それをかをりに正面対して言葉でも伝えた公生。

 

それで今一度諦念していた心に希望を持って、
かをりちゃんはもう一度前を向いていく選択をしたようです。

 

手術を受ける。
医師はそれで健康体になれるとは言わず、
手術の成功の割合も厳しいことを告げるが、
しかしかをりはそれでも自分の時間に少しでもの可能性を掴めるなら、
その光に手を伸ばしたい。
自分の人生なのに自分があきらめるなんてことが
自分がかわいそうだから。

 

だからかをりちゃんは手術を受けることを選択。
公生ともう一度演奏する為に。

 

彼女のことが気になる公生がお見舞いに行くと、
入院生活で筋力を落とさないように
リハビリ指導を受けて身体を動かす取り組みも始めたようで、

 

かをりのご両親は彼女の病気でモノトーンになっていた心が、
またを前を向いて進みだし、色彩を帯びてきたことを公生に感謝します。

 

こちらもかをちゃんが再起する気持ちになってくれて嬉しくなります。

 

公生の一生懸命な姿がかをりの心を動かした……
これは絵見にしても、武士にしても、
凪や三池くんにしてもそうなのでしょう……。
そう考えると公生の昔の神童と呼ばれていた時代の成果や栄光というのは、
紘子さんの見出した天賦のピアノの才能だけではない、
有馬公生という男の子の一生懸命さ、がんばりが導いた面もあったのだと思えます。

 

そりゃあ、才能にあぐらをかいて手を抜いてイイ気になっている人は、
それも言動や作品に表れるかもしれませんし、
そうなると周りの評判も微妙になるかもしれません。

 

公生に魅入られた人たちというのは、
才能におごらない、誠実で優しい彼の人柄をその演奏の音に無意識にでも感じたからこそ、
彼の音を好きになった……という面もあったのかと今回の改稿で思います。

 

しかし、才能もあって謙虚でがんばる子って、
最強に近づきうる資質なのかもしれません。
世の中、出だしでうまく出来る才能ひとつでずっとやっていけるというのは
ごく少数で、
そうした才能よりも(割合的に才能と体力健康面、環境面、運、そしてメンタルと
地道さ、努力や継続力などという)大切なモノがあってこそ、
そのジャンルを長くやって一線で活躍できると思いますから。
そんな才能と現実、活躍の機微も感じさせてくれる公生です。

 

椿はお隣の部屋から夜遅くまでコンクールの練習をしている音が聴こえることを心配して、
柏木さんに相談していますね。
彼女の言葉で
公生にとっては今後の音楽に関して大切な意味が
今回のコンクールにあると教えられ、
椿と距離を作り、自分以外と関係や絆を生み、深めていく音楽に対して
嫉妬せずにその取り組みを応援してやれ、と椿は励まされます。

 

どこか恋愛強者の風格のある柏木さんは
ついでにお隣なんだからがんばって疲れている公生に差し入れしてやっては、
とアドバイス
柏木さん手練れ。
その恋愛観は一体どこから……。

 

柏木さんがこういう手練れさを語りながら、
その実自分の恋愛では踏み出せないヘタレ女子だったりしても
それはそれで面白いかもしれない……。

 

公生と二人の時間を過ごす椿は、
けれど受験結果にいかんでは
公生とこれまでや今のように一緒に居られなくなるかもしれない、
という可能性を前にして、
だからこそでもあるのでしょうか、
二人のひと時を大切に慈しんでいます。
ガサツな椿の心の変化が感じられますね。

 

椿も恋する乙女やな……。
これまでも自己申告で「乙女に向かってー!」とか言っていたのが
地味に真実味を帯びてきましたね。
公生が一人の人間なり、
椿が女性性に目覚める……そういう面もこの作品はあるのかもしれません。
それは成長という
青春モノの王道でありテッパンともいえるのかもしれません。


そしてコンクール予選当日。


今回はくる学祭の舞台裏で武士が言っていた
「12月の予選でぼこぼこにしてやるかんな!」
の日ということです。

 

コンクールといえば、
公生、武士、絵見のトリオです。
えみりんのお出ましです……!
が、なにやら公生に向けて殺意の波動を漲らせておりますあばばばっ。

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 ©新川直司講談社/「四月は君の嘘」製作委員会

 

 

その眼力!に公生はがくぶるです。
血濡れの熊の前の子牛か乳牛状態です。
捕食されちゃう、狩られちゃううっ!

 

そんな絵見とコミュニケーションをとるために、
戦の前の腹ごしらえをしていた自分用の特製タマゴサンドを
絵見に献上する公生。

 

それが成功してえみりんのお顔が輝く~!!♪♪
早見沙織さんの
「んー!」
が善きです。
 

けどこのシーンで思うのが、
絵見は以前、
ガラコンで変態マスクをして変装してまで公生の様子を見に来ていたように
実はツンデレぶりがあるようなのですが、
だからこそこのシーンでは
殺意に満ちた眼光
(そりゃあ、打倒有馬公生で本気で練習してきたのだから
剣呑な目つきにもなるってものです。
ぎたぎたにしてやるわ、この野郎的なメンチ)
をしていた絵見が、
実は内心で公生から何かを貰えたことが小躍りするくらいに嬉しかったのではないか?
と勝手ながら想像できたりしてなかなか楽しめたりするのです。

 

(有馬くんが私にくれるなんて……はーと)
……みたいな。

 

そこに例によってこちらのファイティングスタイルで
胃酸まで吐いた武士が加わってのサンドウィッチ談義。
和気藹々しております。コンクール前ですが。

 

この3人は本来は『トップ以外は意味がない』
厳しい競争である音楽の世界でのライバル同士であり、
またそれ以上に武士としても追い続けた
鋼鉄にして孤高のヒーローであり、かつ個人的に思い入れが強い相手でもあるので、
こうした空気になる事は調子が狂う感じですよね。

 

これは少し角度を変えてみてみると、
武士の中での勝手に抱いてきたヒーロー像のような憧れの
『有馬公生とはこういう存在』
というのはすべて彼のなかだけで育ったものであり、
実際の公生は別物だということを
武士は触れ合うことで確認したのだと言えるかもしれません。
 

武士が憧れた完コピ超絶技巧の西部のガンマンかヒーローのような有馬公生は、
霧のような掴みどころのない幻のような存在。
それがこれまでの武士が追いかけていた公生の本当であり、
武士の憧れの実態なのかもしれません。

 

武士はコンクールに戻ってきた公生の姿に
自分の憧れが実際には違う、
という現実を突きつけられたのかもしれません。
だから、その幻を追って追及した『これまでの武士のピアノ』
で果たして良いのか?
これで打倒有馬が果たされるのか?
自分のピアノは、演奏はこのままで良いのか?
という疑念から武士は葛藤して、
凪の心配する苦しみ悩む時間を過ごしていた。

 

その答えがこのコンクール予選の武士の演奏で示されます。

 

憧れるヒーローとしての有馬に追いつき、追い越そうとして
練習したピアノのスタイル。
それに迷いが生じるのは、
ある意味、武士が過去の公生像に執着し、囚われて、
とどまっているからとも言えるかもしれません。

 

そこで武士はその幻のような存在意としての公生への執着から離れるのか?
そこから自分なりのスタイルを導き出すのか?
 

これは憧れたヒーロー像を超えるための、
そしてそれにこだわっていた自分との決別を示します。
だからこその、武士の思う『これは決別の舞台』


始まる武士の演奏。


彼の心中には自分の追いかけた公生と、
迷う自分の弱さ、それを心配する妹、
そして敵である公生さえもが自分の支えであったという事実。
武士はそんな自分を情けないと自嘲しますが、
今述べたすべては武士が己を認めるという作業そのものだと思います。

 

己を認めるということ。
それは、これまで自分は打倒有馬で打ち込んできたピアノがあるが、
『それだって自分』
だということを認めることだと思えます。

 

公生のことを解って分かっていると思っていたがそれが幻だと気付いたとき、
残ったのはそれまで積み重ねてきた自分のピアノ。
打倒有馬のために磨いたピアノだが、
それは武士なりの努力と譜面の解釈、工夫と追及という
彼が彼なりに誠実に研磨し高めた『彼のピアノ』なのだと思うのです。

 

確かに公生は武士のヒーロー像で超えるべき存在、ライバル。
執着もするし思い入れもある。
そのために腕を磨いてきた。
それが今は超えるべき目標としてヒーロー有馬公生は姿を変えてしまったが、
だからこそ武士は高みに登ることが出来たし、
退屈を嫌う悪童であった彼が
すべてを懸けて打ち込める存在――ピアノにたどり着けたと言えます。

 

そうさせたのは、一生懸命だった公生だと思います。
公生のそのピアノが才能に溢れて退屈を持てあますところだった武士の世界を広げて、
情熱を傾けて打ち込めるモノに導くことになった。
武士のピアノとは、そうして打ち込める、全力を出せるモノで、
重ねてになりますが、
そうやって努力して工夫して追及してきたピアノこそが相座武士のピアノなのだと。
その『武士のピアノ』とはこれまでの
――毎報コンクールでも認められていた誠実なピアノ――
譜面の意思を深く理解した、先人を踏襲し伝統を継ぐ、超正統派のピアノスタイル。

 

才能にあふれ退屈を持て余す武士は全力を注げるモノが必要だった。
そう考えると、
公生の存在と、憧れたヒーロー像の公生を目指しての演奏がどうとかいう考えは
実のところ重要ではないのかもしれません。
武士にとって本当は、もしかしたら、
打倒有馬の目標は、己が打ち込めるモノを探す彼の言い訳に過ぎず、
本当はねめり込めるモノが欲しかった、
自分の全力を出せる存在が武士は欲しかった。
公生を敵愾視する過程はあったものの、
その過程のおかげで今はもう、
武士にとってピアノは全力を注いで打ち込める価値あるモノになっていた。

 

だから公生にこだわらない。
自分は自分のこれまでのピアノに傾けた時間と情熱をこそ信じる。
自分はそのピアノへの熱意や価値を信じて貫き通す。

 

悩んで自問自答していたあるタイミングで武士は、
(あれ?もしかして俺、思ったよりも
有馬とか関係なく、自分のピアノを高めるのが楽しいだけじゃね?)
と気づいたのかも……しれません。
そうなったとき、ライバル視していた理由、
ヒーロー像を見ていた理由、
超えようと思い続けた理由は自分を高めるための口実、
当て馬を自ら無意識に有馬に設定していた、
ということに武士は気づいたのかもしれません。

 

それはある種、武士の『嘘』だったのでしょう。
己を高める充実を得るための敵として設定した、
そうして超えるべき存在として設定して己を磨き集中するために
武士が(子供の無意識に)設定した『嘘』が
鋼鉄の心臓にして孤高のヒーロー有馬公生……ではないかと改めて考えます。

 

でも、その『嘘』は、
自分の答え――武士は自分の打ち込めるモノが欲しかっただけ――
という答えによって、
必要ないモノして霧散します。
有馬は勝手に敵にしていただけで、
自分はこの場合はピアノを向上するために打ち込めることが楽しい、
なら、それに従えばいいだけじゃないか、と。
だったら、有馬の変わった演奏で自分のやることを迷わせるのじゃなく、
これまで情熱と時間を傾けた演奏を信じればいいのではないか?
それが前述の
伝統を継ぐ武士のピアノ。

 

……というのが武士の見出した答えかもしれません。
 

ヒーローはもういらない。
自分は自分で、自分の望むことをするこころを見つけられたから。
だからこその今回のサブタイトル『さよならヒーロー』
……なのかもしれません。

 

武士の演奏曲「ショパン エチュード 作品10-12 《革命》」

 

彼の捉われる幻という殻を打破しての前進、
そして彼のみの『打ち込めるピアノという価値』、
競い合う仲間がいることでそれが出来る幸せ、
これまでの敵愾心、
有馬公生を超えるためのピアノということ以外の新たな輝きを掴み取る、
その先に本当に打倒有馬に至るピアノさえもあることを願って。
そうやって己を高めるために全力で打ち込めるという武士にとっての本当のピアノの意味を見出す、
この曲はそういう
これまでと決別した『革命』の一曲となったといえるかもしれません。

 

この辺の武士の心理について、
原作もアニメもやや分かりにくい印象もあったかもしれません。
というか、5年前に原作に触れてアニメを見ても、
今回の改稿ほどの解釈は全然できない自分がいました。

 

ラジオだったかでアニメ版の監督であるイシグロキョウヘイさんが
「(原作の)新川先生を少し急がせたかもしれない」
と仰っていたのですが、
この武士や絵見周りの描写なども
本来はもっと詳しく描く構想が新川先生の中では本来あったのが、
アニメと同時最終回のスケジュールの都合で
ああいう仕上がりになった……ということかも、しれません。

 

まあ、現状もう完結した作品なのでよほどのことがない限り
その辺の補填はされないと思いますが……。

 

武士の完全復活。
迷いを振り切って己の信じるピアノを弾き切る
強い男、相座武士が戻ってきたことに
凪は感涙し、同時に兄の武士と先生の公生のどちらを応援したらいいのかと、
自分の陳腐な悲劇のポジションに悶えています。
この辺コンクールのシリアスからのギャグ、和み部分ですね。
 

演奏後に武士は公生と会話して、
自分のなかの幻のヒーロー像としての公生に別れを告げます。
この辺の
彼の想いが伝わったかな、
は、公生は公生の演奏をするのを認める。
そのうえで武士は武士の演奏の道を行く。
という意思を演奏で語ったのかもしれません。

 

出番前の、
「モノは演奏で語らなくちゃな」
とはそういうことで、
くる学祭で公生と凪がかをりと武士に演奏でエールを送る自己表現をしたように、
今回は武士が上記のそんな気持ちを演奏で語ったのかもしれません。
きっと伝わっていることでしょう。
相手が他ならない武士が認めて全力を傾けてしまうすごい奴ら、
公生と絵見なのですから。

 

ここからの武士と公生、絵見の関係もきっと互いに高め合うのでしょうかね。

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  ©新川直司講談社/「四月は君の嘘」製作委員会

 

そう考えたとき、原作であった

 

「生涯の仲間と出逢う」

 

というナレーションが省かれていた意図が少し見えた気がします。
いちいちそれを言わなくても、
もう彼らはそんな本当の音楽『仲間』になれていたのだから。

 

互いの実力を認めて、互いに全力を注ぎ己を高め合ってきた者同士だから。
子供の頃の三人のスナップは
幼い色彩で、でもカラフルで、
今に繋がる三人の大切な瞬間だったのだと今回、改めて感じました。

 

コンクール予選の結果が出て、
武士、絵見、公生は無事に予選通過。
本選での彼らの活躍は。
そして椿の恋心、受験の行方は?
かをりの容体はどうなるか……

 

まだまだ目が離せない四月は君の嘘
あと3回!

 

ではまた君嘘の感想でお逢いしましょう~。

 

 

 

「お題スロットから「行きたい場所」春だからこそ行きたい……でも今はッ!」

お題「行きたい場所」

 

お題スロットから……お題「行きたい場所」で書かせていただきます。

 

自分の行きたい場所筆頭は、
5年前からあって未だに行けていない場所、
それは

 

四月は君の嘘』の聖地巡礼がしたい~!!!!
東京都練馬区です。

 

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 ©新川直司講談社/「四月は君の嘘」製作委員会

 

アニメ『四月は君の嘘』に関しては、
当ブログの君嘘感想記事をご覧になった方々は丸わかりだと思うのですが、
自分はかなりの熱量を持っている作品です。
それはもう、それはもう!!

 

……けれど、これまでは仕事や体調、その時の金銭的な事情など
さまざまな理由でその旅行ができずにいました。

 

でも、去年の前半からの仕事のがんばりによる収入と、
この数年の食の改善による体調の上向きで、
去年の時点で「よ~し、来年は春頃、桜のシーズンに行っちゃおうかな~!♪」
と思って色々調べたりしていました。

 

劇中の春の桜が咲き乱れるシーンのスポット……。

ああ、その光景を見て空気を感じて体験したい……!

かをちゃん、公生、椿、渡……と待ち焦がれている数年でした。

 

……にもかかわらず、今年はこの騒動です。
うーん、「愛の悲しみ」の早希ママの言葉を思い出そう。

 

そう、仕方ないのですがね。現状は。
ここでは
聖地は逃げない、
とでも名言的に言ってい納得しておきましょう。
それにまだ、生きていれば、元気息災であれば、
そのうち訪れることの出来る機会も巡ってくるかもしれません。

 

というか、そのために出来ることを今、
自分が日々を努めてやっていく
その地道な行動の積み重ねの先に、
そうしたことも引き寄せられるうると思いますから。

 

まずは、今できることをやっていく。
それに、別に春にこだわらなくても練馬自体は旅行して、
舞台スポットを巡ることはできるわけですから……
それもまた、現在の問題を無事に切り抜けてこそです。

 

そんなわけで、
自分は「行きたい場所」として、
四月は君の嘘』の聖地巡礼として練馬区に行きた~い!!!!
という考えがありまして、
それをこの春の時期に記事として書かせていただきました。

 

さしあたっての行きたい場所のことでしたが、
しかし今年は他にも行こうかと思っていた場所やイベントもあったので、
何にせよ今の問題が一日も早く納まってくれることを願うばかりです。

 

では今月も今の自分にできることを少しずつやっていきます。
みなさまも対策をして健康に気をつけてお過ごしくださいまし。

 

ではでは~。

 

 

「読書感想 『やがて君になる』1巻 仲谷鳰」

 

 TVアニメ化されて視聴したので途中までは話を知っているが、
原作が完結したとのことなのでしっかり読んでみることに。

 

 作品は女子高生同士の恋愛の百合漫画。
しかし、よくある少女漫画のような突拍子もない設定で
なんでもかんでも恋愛関係のイベントになだれ込むような安易な話ではなく 
(燈子先輩はぐいぐいきますが) 
キャラのバックボーンも構成も心情もしっかりと構築されていて
読み応えのある漫画といえる。

 

 異性との特別な関係に憧れながら
いざその状況になると胸のときめきを感じない侑と、
そんな侑を好きになってしまう、過去の境遇から特別であろうとしてきた燈子先輩。

 

 このいびつさにも1巻を読んだ時点でも、
背景から読み取れる納得できる描かれ方がされており、
今後二人の恋と回答にも納得ができそうな
いびつの解きほぐしが待っていそうで信頼して読める漫画といえる。

 

その過程とどう至るのかが興味深い作品でもあり読んでいきたい。

 

ではまた次の本の感想で。

 

 

 

「また一緒に……届けた先に向かって。『四月は君の嘘』第18話感想・改稿」


アニメ『四月は君の嘘』の第18話、
公生と凪の連弾の回の感想、改稿文になります。
おつきあいいただけると幸いです。

 

始まる凪と公生のくる学祭の舞台から冒頭は開幕。

 

公生がくる学祭に出たいと凪に申し出てきたとき、
紘子さんも凪の舞台であり無茶なことを言っていると反応しましたが、
けれど凪は

 

「予感がしたんだ。
何かが変わるかもしれないって」

 

と、自分の現状を打破するきっかけ、
ブレイクスルーになるような予感を抱いていたようです。
だからこそ、寝食を忘れて弱い自分と向き合って泣いてわめいて吐き出して、
ピアノに時間を傾けてきました。
その凪と公生の演奏の舞台がいよいよ始まります。

 

果たして二人の共演は、
彼らにとって――そして彼らの想いを届けたい人にとって、
何かが変わるきっかけになるのか?

 

ピアノ連弾「チャイコフスキー “眠りの森の美女”より 「ワルツ」」

 

凪の演奏はしばらくの間で周囲が驚くほどに上達していたようです。
ピアノとそれと向き合う自分という、
深淵を覗いた凪の演奏に文化祭ので観客たちはを驚かされます。

 

ですがその隣では、
自身の音が聴こえることで公生にはそれが、
出だしからのこの時点でまだ
公生が心で肯定した『母の「愛の悲しみ」のような音』ではないと
感じたようで、彼は『自分はまだ集中できていない』と自らの演奏を判断したのでしょうか、

自らの意識で聴こえていた音をoff状態に切り替えます。

 

これは考えようによっては、
以前は無意識で『母に従った譜面通りの音』を自ら聴こえなくしていた公生ですが、
その母のピアノを肯定し、
音が聴こえなくなる症状を理解した公生は、
その症状を使いこなすようになったのかもしれません。

 

紘子さんの導いた、
『心の中の心象風景にある音』を優先させてそれを再現することが
公生にとってのベストの演奏で、
そのためならば聴こえなくなる症状を半ば意識的にコントロールして
必要な音のために意識が受け取る聴覚的な音をoffモードにする。

 

もしかしたら、公生はガラコンから凪との練習の期間のあいだに、
自分で何度も譜面をさらううちに、
その手法を少しずつ身に着けていったのかもしれません。
最初は気付くとなんとなくそうなっていたのを、
少しずつ意識的に「やれるかな?」と試していった……とか。
それで連弾のころには使いこなすレベルになっていた……とも
改めて考えます。

 

もはや障害という逆境から得た必殺技ですね。
君嘘って少女漫画か、という評価もあったようですが、
結構少年漫画もしているのかもしれません。

 

そんな公生のoffモードからの演奏の音の激変に、
観客だけではなく
自分の演奏に調子の良さを感じていた凪も驚かされます。

 

このピアニスト、有馬公生の真髄に、
ですがここで凪も一歩も退かずに
「上等!」
と喰らいついていきます。

 

この辺から凪の公生に対しての戦っているモノローグが
すごく熱いのです。 
可憐な容姿に似合わず熱いハートがまた良い。
そういうところにもこの回の少年漫画っぽさを感じます。
 

もともと公生への遺恨から小悪魔な隠れた本性を持って近づいてきた凪ですが、
公生とのピアノのレッスンを通して
自らの抱える悩みで苦しみ、
逃げ出してしまった当たり前の小さな女の子の弱い部分も見せながら、
いざ本番でのこの熱い様子は

 

思わず「凪、頑張れ……!」

 

となっちゃいます。視聴者を惹き付けますね。
 

演奏中、
公生の先日のお願いでしょうか、渡が携帯電話で演奏を通話しています。
その先では病室のかをりちゃんが公生たちの演奏を聴いている。

くるみが丘中の音楽講師の男性が、
凪と公生の演奏を評価しています。

 

二人とも良い演奏だが、公生が特に良い。
連弾相手の性格を知り、尻を叩き、調子を乗せている。

 

これは公生がかをりにされたことでもあると言えます。
当たり前ですがかをりとの時間が無駄ではなかった。
公生のなかにかをりの色々な言葉や行動が生きていて、
それがここで凪を成長に導いていることに、
本作の『音楽で繋がっている』をまた感じます。

 

そして、この連弾は
『二人のワルツ』

 

その表現はとても素敵なのですが、ここで思うのは
一緒に踊っている公生と凪が、
それぞれにの心のなかに思い描いている人物が違う、
ということです。

 

本来、連弾や共演というと、
お互いが心を通じ合わせた一体感が大切なように思います。
そうして二人でひとつの演奏を奏でる。

 

けれど凪の今の熱いファイティングスタイルに見て取れるように、
そして公生の容赦なしの
自分の演奏はこのレベルだ、ついてこれる?
という自己主張のし合いのこの連弾は、
かつて「まるで殴り合いだ」と評された
かをりと公生の共演を思い起こさせます。

 

この連弾は、かをりと公生がその『殴り合い』で
観客を沸かせる最高の演奏をしたことと同じ予感がします。
ここまでの殴り合いだからこそ、
この連弾は加速度的に
階段を駆け上がるようにボルテージをあげて聴く人を魅了して、
その心を揺さぶることになるのではないか、と。

 

だとしたら、この連弾を聴いている
凪と公生にとっての想いを届けたい人に、
それは届くのか……?
 

この「チャイコフスキー「ワルツ」」は
跳ねるような音と駆け上がるようなリズムのアップテンポの曲で、
とてもテンションがあがる曲だと思います。
OPテーマ『七色シンフォニー』の二番歌詞でも

 

チャイコフスキーは勇気をくれる音」

 

としていますが、まさにその通りだと思います。
そしてこの勇気の音は、
届ける勇気と、そして
届けたい相手へ勇気を与える音なのかもしれません……。

 

二人の昂まりとともに演奏は終演。

 

そのさなか、公生と凪の共演に突き動かされて、
かをりは病身でエアヴァイオリンをしていましたね。

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 ©新川直司講談社/「四月は君の嘘」製作委員会

 

 

演奏が済み、かをりの頬を伝った涙は、
自らの諦観へのくやしさか、
公生とまた演奏したいという切なる思いか。

 

公生と凪の殴り合いの精一杯のメッセージは
かをちゃんの心に何かを届けることが出来たのか。

 

ここで演奏後の会場の万雷の拍手がとても熱いです。
以前、紘子さんが凪に言った

 

「その先にチャラになる瞬間がある。
悩んで、わめいて、苦しんで、もがき続けた数か月、
何もかも報われる瞬間があるの」

 

深淵を覗いて必死にピアノに向き合い傾けた時間が
今まさに凪に報われた光景で視聴者にも震えがきます。
同時にこれは、公生が求めた『忘れられない風景』でもあり、
凪と公生にとっては『音楽が届いた瞬間』でもあります。

 

そんな光景を前に凪は、
大きな拍手と歓声に包まれて笑顔になり舞台をしめながら、
音楽が言葉を超えて伝わったか?
を思います。

 

共演終了後、舞台裏で公生は藍里凪だと思っていた相座凪の
兄の相座武士を紹介されて面食らいます。

 

そこは視聴者にはようやくであり、
公生がすんなりそういうことかと受け入れることで
大した問題ではなかったと処理されます。

 

それよりもいきり立つのが武士の方で、
何故妹の凪が公生と連弾をしているのか、
仲良さそうにしているのか、
凪が武士をいさめて公生の肩をもつことなどに
武士は妹を奪われた男泣きで走り去り……と思われましたが、
そうはしませんでした。

 

振り返り、公生に宣戦布告をする武士は、
迷いを振り切り加速して前に進む決意に満ちていて、
凪はその姿にかつての自分のヒーローの姿を重ねます。
これは自分の想いが言葉ではなく演奏で少しでも伝わった結果なのか……?

 

それを肯定してくれる公生に、
凪は泣きながらお礼を言うのでした。
最初は敵視していた遺恨ある公生に対して。

 

うーん、有馬公生被害者の会の会員が増えたな。

 

 

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 ©新川直司講談社/「四月は君の嘘」製作委員会

 

ときに、終演後に紘子さんが公生に、
「人が成長する姿を見るのはたまらないでしょう」
といって公生に凪のレッスンをさせたというのが描かれますが、

 

ここについて改めて思うのが、
人に教えるというのは、
自分の持っている力を誇示して優越感に浸ることでは当たり前ですがなく、
むしろ人に教えることで自分の持っているモノを確認する作業で、
それで相手が成長して成果を出して、喜んでいる姿を目の前にすることは、
自分の力と確認作業をしたこれまでが正しかった、意味があったと
教えた相手に証明してもらった、肯定したもらったこともあると思うのです。
それはお互いの喜びになる。
これは同時に、公生がかをりに憧れて変わった何か、成長したことが
凪によって肯定されその力を証明された、
他者に教えることで公生とかをりの時間が結実したともとれます。

 

人に教えることは、
これまでの自分の経験と時間をそ相手を通して、
一緒に確認し、肯定する作業でもあるのかもしれません。
だから、教えた『人が成長する姿はたまらない』
ということかもしれません……そう、改めて思います。

 

そして、そこに共同作業をした時間も手伝って二人に絆が生まれる。
ここでも『音楽によって繋がっている』が感じられると思いますし、
この凪へのレッスンを通して公生に新しい繋がり、
互いに認め合う価値ある人間関係という、ある種の『幸せ』ができたことになります。
そういう狙いで、公生に幸せなピアニストになって欲しい紘子さんは、
凪のレッスンを公生に任せたという面もあったのでは……?とも
この改稿で改めて思います。

 

そんな新たな絆を作った公生ですが、
彼は今、一番の大きな存在であるかをりのもとを訪れ
自らの意思を告げます。

 

「心中はできないよ」

 

きっぱりと、ある意味のラヴコールにノーをつきつける。
これも一種の空気や状況にながされない確固たる自己主張。 

そして公生は続けて、

 

「もう一度チャンスをください。
君と肩を並べるチャンスをください」

 

「もう一度、僕と一緒に弾いてください」

 

と自身のかをりへの想いを言葉にします。 

 

かをりのあきらめを知るからこそ、またかをりの存在が大きいからこそ、
その彼女の心に公生は再起を願う。

 

母のようになっても欲しくないというのもあるのでしょうし。

 

それ以上に、かをりとまた音と心を重ねることを公生は望むのでしょう。
かつて二人で生み出した『忘れられない風景』をまた二人で経験したいと。
 

ここまで毅然とした自己主張。
かをりの演奏に自由と自己主張をみて憧れた公生は、
己の自己主張の迷いであるの黒猫の幻影との闘いを経て、
母への誤った自己主張の後悔も融解させて再起し、
凪にも遠慮容赦なしの自己主張で彼女を成長させ、
そして今、それを促したかをりに精一杯の自己主張をした。
 

そうさせたのは、君なんだよ……(泣)

 

この辺を想像すると、かをりの存在を大きく思う公生の気持ちに
たまらない気持ちになります。

 

「君は王女さまじゃない、
僕はラヴェルなんか弾かない」

 

という公生のセリフ。
いちご同盟』で主人公がヒロインに弾いてみせた曲、
ラヴェルの「亡き王女のためのパヴァーヌ
を弾かないというこのセリフは、
かをりの結末が『いちご同盟』と同じになることを拒否し、
彼女に生きることを望み、願っているという公生の想いと決意の表現なのでしょうかね。

 

公生はかをりに、生きて欲しいと強く願っている。
それを言葉だけではなく、
連弾で、音楽で伝えようとした。
またあんな共演をしようよ?したくない?
という提案。
 

あきらめかけていたかをりに生きる希望と、あがく目的を与える意味もあったのだと思います。

 

かをりは公生の言葉に
ここまで深刻な病状で希望をもって、また立ち上がってくれという公生に、
残酷だと言うけれど、
それでも、

 

「また、君とワルツを」

 

とかをりも欲を出し、また夢を見たいと望みます。

 

世界がモノトーンだった公生がかをりによって変えられ、
今度は公生がかをりを変えた瞬間に震えます。

 

果たしてかをりの願いは叶うのか。
彼女の病状の今後は。
そしてこれからの展開は?

 

あと4話です。
いやあ、「ワルツ」の回は本当に熱くて泣けてカロリーを消費します。
今回の視聴でもたぎって、泣いて、かつぐったりでした。
けど、それを通して活力が湧くのです。
自分の元気になりたいときに見るテッパンのアニメの1話のひとつでもあります。

 

ではまた、君嘘の感想記事で~。

 

 

 

「転職前の肉体労働から学んだ色々。「しごとの思い出」」


お題、「しごとの思い出」で書かせていただきます。

 

自分は十代後半からの生活習慣などの悪さから
二十歳ごろから持病ができまして、そのため学生の時間を
世間一般の多くの方々のようには過ごせなかったという過去があります。

 

それで二十代はリハビリを兼ねて肉体労働をしていたりしました。

 

最近でもちょっと話題になった、青いストライプの飛脚のあそこさまです。
ああいう大手はつてがなくても、会社自体が福祉にも力を入れていて、
そういう体調に問題のある人間の雇用もしているという側面があるのです。
本当に身体がまともに動かないような人は、
荷捌きの現場では通用しないのでメール便や伝票処理や、
小包系の荷物の処理、受付やクレーム処理などをまかされる方もいました。

 

自分は体調の面もあったのですが、
体格が良かったので
(それと十代はアホほど筋トレをしていたので……それが祟ったとも言いますが)
体調のことはまあやってみて、
ということで現場でコンベアにひっついて荷物を大型トラックに積み込むという
多くの運送会社の仕事をやりました。

 

運送会社の現場仕事にも色々あって……。

 

まず、

自分のやっていた仕事内容も説明もしたいのですが、
それにはそもそも運送会社内の業務内容について少し書きたいと思います。
知ってるよ~、という方は読み飛ばしても結構です。

 

運送会社の仕事は、ポジションとして基本が、

 

その会社が荷物の運送を請け負う、得意先の会社というのがありまして、
そこに普通の商社マンの営業マンのように毎日出向いて、
『今日の荷物』
というのを集荷してくる、
『営業、集荷ドライバー』
というポジションがあります。
これはだいたいその会社の正社員が担当します。

 

そして正社員でも色々あり、
自社に持ち込まれた、(または依頼を受けて集荷した)
個人などのお客様からの小包などの荷物(盆暮れの品や、日々の小包などが分かりやすいかと)
を、指定の個人宅へ配達する
『配達、デリバースタッフ』
(ホームデリバリー、デリバリーと呼称していました)

 

そして、自社内での様々な事務作業を行う
『事務の社員』さんたち。
(こちらは現場の肉体労働とはかなり切り離されているので、
あまり詳しい業務は知りません。
ただ、自社の事務室に用事で這入ったときは、
デスクと電話と書類、コピー機、棚など
分かりやすい事務室状態でした)

 

これらが一つの会社の営業所内でそれぞれの仕事を日々行っています。

 

そして、
自社の集荷、配達以外に
その会社と連携している他社のドライバーも出入りします。
彼らは他県(北は北海道から南は九州まで。
北海道はフェリーに乗せるコンテナに荷物を積み込み、
それを大型トラックの後部コンテナとして搭載し北を目指します)
から長距離トラックで毎日その地方から目的地への荷物を運び、
途中で特定の地域の荷物をその営業所で降ろして、
または積んで別のところに向かったり、
来た地方に帰ったりします。
(例えば、
熊本から来て、関西の中部ハブ(中継点)でいったん降ろして、
(基本、大きな会社になるほど九州から関東へ直通というのは少数派かもしれません)
そこで新たに積んで千葉や東京に走ったり、
という決まったルートを走ったり、
中部ハブで受け取った荷物を積んで熊本に帰ったり、といったように)

 

営業所では自社営業ドライバーの荷物と、他県からの長距離トラックの荷物をトラックから降ろします。
営業所の荷捌き現場では、
荷降ろし場にトラックを接岸して、そこで後部コンテナから積載された荷物を降ろし、
それをコンベアで流します。

 

このコンベアは主流が一本構内現場に通っていて、その両脇
(もしくは会社の規模によっては片側のみかもしれない)
に何本も伸びるローラーに荷物を引っ張りいれて、
ローラーから長距離の大型トラックやデリバリートラックのコンテナに
荷物を積載していきます。

 

コンベアとローラーの位置関係は『拝む』のつくりのような感じです。

 

この荷物を引っ張り込む作業を、
『荷引き』(にひき)
といいます。

運送会社ではトラックでの運搬以外の荷物に関しての肉体労働として、

 

荷降ろし、
荷引き、
荷積み、積載、

 

がメインであり花形です。
(花形という言い方は華やかな仕事を好み、
汗臭い仕事を厭う方たちからすれば失笑物かもしれませんが)

 

あとは、前述の小包系の仕事と、
貴重品を中身が破損しないように梱包して
それ用の処理(このへんは詳しくは言えません)をして配送できるようにする持ち場もあります。
これは壊れ物が多いので人を選ぶ持ち場でした。
DELLパソコンとか高級時計とか貴金属とか色々……。

 

これらの荷物ですが、
皆さんも配達されてくる荷物の箱をみるとついている伝票に
バーコードがあるのに気づくと思います。
これはおそらく全国ほぼ共通だと思うのですが、
バーコードを読み取る機器でデータ管理をしています。

 

荷物の発送の有無や追跡は
これを機器で読み取り、
事務にデータ転送して処理されて成立しています。

 

……では、コンベアで積み込む荷物もバーコードを読み取っているのか?
と思われるかもしれません。
答えはイエスです。

 

端末入力100%をスローガンに、
現場では荷積みの際にコンベアから引き込んだ荷物を
ローラーからコンテナに動かす際に端末で
ピッピとやっていくのです。

 

これらの作業を長距離トラックの運転手一人で行うのは
かなりシビアです。
一人で長い距離を運転もしなくてはならないし、
荷降ろしはその社の人間たちが手伝ってくれるにしても、
積載から端末作業まで行うのはかなりのしんどさのようです。

 

そりゃそうです。
長距離トラックのコンテナの広さだと、
荷物が冷蔵庫などの大きな物(大物)ならともかく、
小包みサイズが大量にきたら数が何10倍になるか……。

 

それを一個一個に端末を打って
下からコンテナ内の天井の高さまで(足台を使います)積んでいくのは、
腰を屈伸させる繰り返しになりますからどんなに体格がよかろうと、
体力自慢のタフガイでも身体がもちません。
それを何十年規模で続けていくのは無理があります。
運送業界も長いなかでそうした現場の人間のことを分かって、
サポートする人間を必ず配置します。

 

それが荷捌きの現場のもうひとつの存在です。
これは単純に
『現場員』です。

 

だいぶ前置きが長くなりましたが、(長すぎですね)
自分はリハビリとしてこの現場員として働かせていただいていました。
というか、最初はそれがヘタレだったので、他の持ち場と合わせて
(あ、○○さん体調まずそう、今は他に回ってもらおう……、
とありがたいことに配慮していただいて)
色々な持ち場に便利に使っていただいていました。
最終的には体調も結構上向いて、
荷降ろしも荷引きも大体やっていました
(それでも完璧に通用するバイタリティではなかったのですよね)

 

その仕事で関わった人たち。感じたこと。

 

正直、肉体労働の荒くれ系……というイメージのある仕事。
働いている人たちもそんな感じじゃあ?
と多くの方たちはイメージを持たれるかもしれません。

 

それは……そういう人は多いです、実際。
自分の体格に似合わず夜遅くなると持病でグロッキーになって
ふらふらになっているところなどは、
だいぶ檄を飛ばされることもありました。

 

自分は昔からたまに聞いていた言葉ですが、
『でかい図体して~~』
という蔑視もここでも人によっては言っていました。

 

ただ、それでも自分はリハビリの他に実は密に内心で
(いや、これは実は今までも友人一人にしか言っていないのですが)
そもそも十代のいい加減な生活は健康面だけではなく、
周囲の信用も損なっていて、
まずそれを回復するためにひとつどころで数年
(具体的には20代すべて)
務めあげる、という目的をもってもいたので、
周囲にネガティブな反応をされても踏ん張ってできることをしていました。

 

すると……、
1年もしないくらいですか、
周囲の反応が変わってきました。
そもそもさまざまな作業のある現場だったので、
自分もうまく出来ない仕事と、得意な仕事が明確になって、
「〇〇くんはこれ頼むわ」
「今は荷積みちょっと手伝って、でもお呼びかかったらアレ手伝ってあげて」
という風に適材適所で必要とされ、
それにいい加減周囲にも自分が体調的に問題がある人間だとも周知され、
それでもめげずに通ってきて文句も弱音も言わずに
言われたことはとりあえずやるという姿勢に、
根性は認めてもらえたようでした。

 

そうなっていく過程で分かったのが、
肉体労働の現場も多くの共同で行う仕事と一緒で、
全部ひとりでできるわけではなく、
協力しあって一つ一つの作業を済ませていくということです。
だから、それを共同作業の仲間として任せられない人間が入ってくると、
人の頭数だけいるのに(会社は人は回している、と
どういう会社でもいうと思います)負担は減らず、
むしろイマイチ使えない新人のカバーなどをして作業量は増える……

 

そりゃあ苦言の一つも言いたくなるというものです。

 

ですが、そんな現場だからこそ、
地道にやって出来ることの力を伸ばし、
周囲の力になることで、
たとえ身体に問題があっても周囲は認めてくれる、
ということを自分はあの現場の人たちから学びました。

 

(このへんは学生と違うと思います。
学生は周りと違うという理由で
ある人を叩くことを平気でする子供メンタルの集まりですが、
仕事をする大人の集まりは、
一緒に職場にいる相手は仕事のためになるかどうかが基本、一番大切なことです。
アレなOLさんたちとかは学生気分の延長で同性いびりとかあるそうです。
親戚のデパガのおねえさんが言っていました)

 

その頃から勤続5、6年あたりはもう、
荒くれさんたちと気さくに挨拶をして、
長距離トラックのおいちゃんたちとも顔を覚え合い、
「〇〇ちゃん、今日もたのんぞ!」
と声をかけられ、
「あ、○○さん、今日(営業トラックから九州行の荷物の)○○ですよ」
と情報交換したりもしていました。

(荷物の傾向が分かるとドライバーも段取りしやすいのです)

 

この現場は確かに、多くの力自慢たちが一つの仕事を共同でやるので、
ときにストレスになることがあって衝突して不機嫌になる人もいたり、
現場に檄が飛ぶこともあります。

 

自分も営業ドライバーの一人とあることで衝突して
あわや殴り合いというときもありました。
(双方に、味方して互いを止めてくれる人がいたので事なきを得ましたが。
ただ、その後にそのドライバーさんから厄介な仕事を一度受けることになりました。
自分はそれでチャラにしようや、という気持ちであえて受けて済ませたところ、
それ以後問題はありませんでした)

 

この仕事の人たちは確かに気性も言動も荒目なところはあるのですが、
それは同じ現場で仕事をするうえでちゃんとしていないから、
自分たちの負担が増すからくる当然の気持ちであり、
仕事をしに来ているのですから、それに見合う働きをすれば、
そんな人たちもちゃんと認めてくれるのだと分かりました。
そうして認められて分かったのですが、というかこれを言いたかったのですが、
別に彼らは悪い人たちではありません。
むしろ気の良い人の方が多いくらいでした。
(中には異様に良い匂いを時々させて現場にいるおいちゃんもいましたが……笑)

 

数年務めている間に自分の現場員にも多くの人たちが出入りをしました。
肉体労働を選んでおきながら文句たらたらであったり、
教えたことを覚えなかったり、
ミスを直そうとせずに現場の在り方の批判をしたり、
1日で来なくなるような人など(どんな仕事もそういうのはあると思うのですが)
色々いました。

 

それでも高校生のバイトくんたちでさえ、モノによっては
バリバリがんばっている子もいて、
自分の中でもやはりそれぞれ違った気持ちで接してしまいました。
年齢に関係なく、
頼れる奴は認めてしまうのは仕事のうえでは性のようなモノでしょうか。
(表面は仕事内容を教えるので同じようにしていましたが)

 

この運送会社の前職で自分が学んだこと。

 

そんな仕事内容と人間関係の力仕事の職場でしたが、
20代をなんとか務めきり、
目標に従って転職しました。

 

この前職の時代で学んだのは、
自分に何等かのビハインドや問題があっても、
出来ることを少しずつでもしていく根性や気概が
何かに結び付くこともある、というマインドと姿勢。

 

そして、
どんな問題があってもそれでぐじぐじしたり、
どうとでもひねり出せる言い訳をしていないで、
自分のできることを本気でやっていたら認めてくれる人も出てくることもあるよ、
何かが変化してくるよ、
ということでした。

 

それは同時に、
やる前からダメだとかどうとか思って躊躇っていないで、
やって確かめてみろ、ということもであります。
そして、やってみたことが100%の思い通りではなくても、
やれるだけやってみる、ということでもありました。

 

自分は結局のところ、いまもなお二十歳ころからの持病は残っています。
そこから
すべてが思い通りに行くわけではない、という人間の限界と当たり前を学ばされました。
けれどそれでもトライする。
そのトライが100%の思い描いた通りの達成でなくても。

 

かつて、『寄生獣』という漫画でラストバトルで
主人公が窮地にあり、イチかバチかの賭けに出るシーンで、
葛藤する彼はこう決断して勝利しました。

 

「やらなきゃゼロだ」

 

その言葉を強く言えるほど大きな成果は出していない自分ですが、
しかし、
この前職をしなかったら、
自分は持病があるからこんなのや、まともな仕事は無理だと見切りをつけていたら、
ここまで書いたような考え方も獲得できなかったかもしれないと思います。

 

そういう意味でも、
自分の前職はゼロではなかったと強く思えますし、
人からすれば
肉体労働の運送員~?なのかもしれませんが、
自分はそれを胸を張って『自分はしていた』と言えます。

 

自分の前職の肉体労働はそういう『ハート』を学ばされたという意味で、
有意義で思い出深い時間だったと今こうして書かせていただきました。

 

現状、コロナウイルスの件で世間は自粛ムードだけでなく、
外出を控えたり、仕事を自宅でなど、
どんどん厳しい状況になっていますが、
しかしその中でも多くの人々の生活の基盤となる流通のために
運送業を仕事とする人たちは今日も現場で荷物と格闘し、日本中の道路を走って働いています。

 

イメージ程に悪い人ばかりではない、

と現場で知った自分の目線で書いた本記事で

運送業を仕事とする人たちを少しでも思っていただけたら幸いです。

 

そんな自分の「しごとの思い出」の記事でした。

 

p.s.
前職以後、荷物の配達は代引きの際はきっちり用意して、
デリバリーの方に挨拶もしっかりするようになりました。
また、どんな仕事の方もその時々の事情での出来る限りを
踏ん張っているのだと想像できて、同じキツイ仕事をしてきた者として
店でレジさんなどにも丁寧に
「お願いします」「ありがとうございます」
を言うようになってだいぶ経ちます。

 

ではでは~。

 

転職nendo×はてなブログ 特別お題キャンペーン #しごとの思い出

転職nendo×はてなブログ 特別お題キャンペーン #しごとの思い出
by 株式会社Jizai「転職nendo」

「アニメ『へやキャン』視聴完走・感想。楽しむこととうまい物の結びつきを感じた作品」


今期のアニメ、『へやキャンΔ』の視聴を終えた感想になります。

原作あfろ先生によるキャンプとアウトドアの漫画『ゆるキャンΔ』
の2年ぶりの新作アニメ、『へやキャンΔ』

 

yurucamp.jp

 

本作はEDテーマ曲を含めた4分ほどのショートアニメ作品として、
本年の1月クールとして全12話で放送されました。

 

ラジオを聴いていてキャストの方も口にしていたのですが、
原作にはないオリジナルの構成によるシリーズとなった本作。

 

ストーリーは細なが~い『うなぎのねどこ』のような野外活動サークルの部室から、
部長の千明の言葉で表に出て、
地元山梨のスタンプラリーを野クルメンバーでしていく様子が描かれます。

 

各地を巡りスタンプラリーをしていくなでしこたちですが、
途中アクシデントでスタンプラリーの台紙を紛失しながらも、
それまでスタンプを押した台紙がみつかることに希望を託して、
スタンプラリー自体は他の紙にスタンプを押して継続していくことに。

 

このながれを通して、各キャラの特徴を活かした回や、
地元山梨や、富士山を通してまたがる
なでしこの引っ越し前の土地、静岡のことなど
各地の品などの話題をピックアップして描いていて、
ご当地アニメの本領発揮という内容となっています。

 

途中、酒を飲んでいる先生や、
野クル以外のリンと恵那も出番がありました。

 

スタンプラリーの台紙は以外な人物から回収され、
最後のスタンプを押して温泉につかってサイダーを飲んで……
という、冒頭で千明が旅に出るといった通り、
各地を見て回りうまい物で満足する、
という旅そのものが描かれているようにも感じました。

 

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 ©あfろ芳文社/野外活動委員会

 

このサイダーを飲んでサイコー!
でちょっと感じたのですが、
旅行など各地でうまい物を食べるというのは、
味の脳記憶でその土地を印象づけて、脳を喜ばせて良い思い出としてインプットして、
またこの土地を訪れてもらおう、
という昔の人々から続く地味で効果抜群の知恵ではないか?
とそんなことを思いました。

 

温泉や銭湯も、湯上りに元気になったり爽快になる
手軽に摂取できる飲み物などを飲むことで、
その『良い記憶』と場所が結びついて、
『温泉(銭湯)は良い場所だ、また来よう』
と大なり小なり無意識に思わされて、再訪に結び付く効果があるのかも、と。

 

現代の糖質と食品のリピートの商業的脳科学もそういうモノらしくて、
糖質で脳に快感を与えることで
(その快感がリピート欲求のちょうどギリギリの塩梅で設定されていて、
これを『至福点』というそうです。
世の中のスイーツやお菓子類、糖質、加糖加工された食品は
ほぼほぼそういう意図が含まれています。
あれなんかまた買いたいなー、買うのをやめられない、
という品はその辺をコントロールされています。少し注意しましょう(余談))
再購入の意欲を誘発させているようですし。

 

旅や温泉でうまい物やサイダーや甘いコーヒー牛乳というのは、
それで脳を楽しませて、また来たい、またやりたい!
という欲求を喚起させる効果があるのかもしれません。
昔の人は脳科学なんて知らなかっただろうけれど、
甘いモノやうまい物、良いモノなどに惹かれて人をひけるということを
あきんどさんたちは賢く知っていたのかもしれませんね。

 

もしくは、地元の名産を売るために知恵を絞った結果が
そういう効果になって旅の客の獲得につながって今の商売の姿に至るとか。

 

本作で旅のおわりまで視聴して、
自分はそんなことを考えさせられました。
(人によってはそんなのは常識、という方もいるかもですが)

 

加えて、ゆるキャンTwitterを見ると、
アウトドアを含む各種グッズの宣伝ツイートがそこそこな数あります。
これは各所はウハウハですね、やらしい話。

 

前述の考え方に当てはめるとこれは、
楽しく甘いアニメで視聴者の脳を楽しませて、
もっとこのコンテンツ関連への欲求を引き出して、
あわよくば商売を拡大させようという
現代ではテッパンとなっている商売スタイルであるといえるのではないでしょうか。
……うーん、まあ多くは言うまい。

 

もともと人物を心理や成長まで深く描くタイプではない
ススメ系の作品ですので、(そこに関しては賛否両論ありそうですが)
本来の目的はそのジャンルの良さのアピールと集客だといえると思うので、
アピール力を持たせたいのは分かりますし、それが嫌なら視聴していませんので、
多くは言いません。

 

ただ、今回の『へやキャンΔ』ではそんな考えが浮かんだ視聴でした。
別に旅や名産品を楽しむこと、
ススメ系のアニメを否定や批判したいわけではないのですが、
今の自分には本作をそういう観点でも見ることや楽しむことが出来たな、
という感想でした。

 

本作を視聴したほかの方々はどんな感想をいだかれたでしょうか?
続く映画や、発表された来年のテレビシーズンも期待しながら、
今回のアニメ『へやキャンΔ』の視聴感想でした。

 

ではでは~。

 

 

 

「格ゲーの使用キャラでその人の性格がわかる?についての一論」


先週、Twitterでトレンドにあがっていた

 

#格ゲーで使ってるキャラで性格がわかる

 

というタグ。
おそらく、以前にも存在したタグがまた誰かを起点に話題となったのに
自分も気づいたのだと思うのですが、
今回、これをみて多くの方々と同じように自分も
『本当かな?』
と感じたので、そこから広がった考えを今回は書かせていただきます。

 

検証してみる。

 

本当に格ゲーの使用キャラでその人の性格が分かるのか?
という疑問に対して、
自分を実験台に考えてみることに。

 

そもそも、その人の嗜好や癖から性格を推し量るのは
犯罪捜査でいうところの『プロファイリング』にあたると思いますが、
割とそういう認識も広がって久しいかと思いますが、
自分はそんな専門的なことを学んでいるわけではありません。
ただ、創作をそこそこ続けてきて、
バックボーン(そのキャラ、人物の生い立ちや経験)からキャラの言動を導く、
というある種プロファイリングに近い作業はある程度のレベルでやってきたので、
そのレベルにもよりますが、
そうした技術での性格の推し量りを試みようと思います。

 

では行きましょう。
まず、自分が過去によく使っていた格ゲーキャラをピックアップします.

自分はストリートファイターⅡ、餓狼伝説1から格ゲーに触れていて、
ただ当時は特にこれといった固定キャラはなかったです。

 

というか、コマンドをうまく入れられないという理由で
基本技で戦うのが楽なブランカ
ボタン連打の百裂系の春麗や本田を使っていたように記憶しています。
(かろうじてタメ系のガイルも使っていたようですが)
龍虎の拳で少しコマンドを覚えて、
KOFのNEOGEOCDと
とコンシューマのストリートファイターZERO2で
ようやくコマンド技を当たり前に使えるようになったくらいの人間なので、
そのへんのキャラからピックアップしています。

 

ストリートファイターZERO2』
 ガイ、さくら
『ヴァンパイア・ハンター』
 フォボス
餓狼伝説3』
 ギース、テリー、
KOFシリーズ』
 女性チーム、イタリアチーム、主人公チーム、キング、
月華の剣士
 守矢、雪、
CAPCOM VS. SNK 2
 ロック、響

 

このくらいで、2000年台はあまりプレイせず、
2010年台に『ペルソナ』の格ゲーをプレイしましたが、
その時はある程度どのキャラも触ってとくにやりこんだキャラは
いなかったので、上記くらいから考察したいと思います。

 

(このくらいの格ゲー歴なので、
使用キャラというよりも
使用していたキャラで、になりますが、そこはご容赦ください)

 

f:id:itotetsu241046:20200328131029j:plain

 ©CAPCOM U.S.A., INC. 2016, 2020 ALL RIGHTS RESERVED.

 

 

自分の使用キャラをみて共通項を探したところ、個人的に特徴を感じたのは、
キャラの性格的なアプローチよりも
使用キャラの『技の傾向』でした。

 

格ゲーは戦い方にも性格が出る、というのを以前聞いたことがあったので、
その辺が無意識に作用したのかもしれません。

 

それでいくと、
軽快な動きと、
中距離から届く居合斬りや一気に間合いを詰められる突進系の技で攻めるのが
割と好みで、
多段ヒットする技や手動乱舞が好き。

 

ということでした。
ここから性格を想像すると、
無理に近づかずにわりとさっらとしたスタンスで人に対応して、
適度な距離感が心地いいのが通常の在り方。
投げ系のように目的のために無理をして強引に近づくのはあまりしない。
けれど攻め時は一気に懐に接近して
容赦のないタコ殴りをぶちかます集中力と爆発力のあるタイプ。
ただし、ギリギリの間合いで緊張感をもっての牽制のしあいは苦手、
と同時にチクチクとした牽制のし合いは自分的に好みではないです。

 

そしてぎりぎりの間合いは苦手なので、
その苦手であえて勝負せず、得意な間合いにさがり、

タイミング、攻め時を待って一気にぶっ込んで、
場合によっては劣勢からの一発逆転を目論む。

 

そういうプレイスタイルであり性格が好んで使う技に出ているようで、
それを自分の現状の性格に当てはめて考えてみると、
……いやあ、結構当たってます(苦笑

 

使用キャラの見た目や設定的なことよりも、そのキャラの技の傾向から、
という観点では

使用キャラによってその人の性格がある程度

浮き彫りになるのかもしれませんね。

 

……ただ、上記の自分のスタイル、言い方を悪くいうと、
無理して近づかない臆病で、自分のタイミング、ペース重視の自己中で、
自分の都合で一気に攻めてくる身勝手な人間、
という見方もできるかもしれませんね(笑)

 

人間、性格というのは観測の仕方で善いようにも悪いようにもとれます。
勝負事において攻めるのは当たり前でそれを自己中ととるのは変だし、
相手のペースに合わせていたら勝機はないでしょう。
格ゲー漫画の漢である中平先生の作品でも、
勝負は攻めであり、状況を掌握した方が勝つ、と喝破していますし。

 

格ゲーにおけるプレイスタイルと性格とはある意味、
必要ならそうすることもある性格である、
というのがより正確かもしれませんね。
(それが通常営業の人も世の中にはいる、とも言えますが)

 

……ここまでのように、
こうした観点で自分の使用キャラから性格にアプローチすることは
一応可能なようです。
ですが、ただ、それは自分で自分のことを分析するにとどめるべきだと思います。

 

これはTwitterを見ていて思ったのですが、
ある誰かが
自分のキャラはこれです、性格を当ててリプしてください。
と言っていましたが、
しかしこういうのはネットの場合でも、そしてリアルでもですが、
情報にフェイクが混ざっている可能性があります。

 

自分の性格を当てさせて、それが違うことをあざ笑ってさらし者にする目的で、
「当てて~リプおくってきて~」
と言っている可能性は高いです。
悲しいことに世の中にはそういう冷やかし目的で発言する人は厳然と存在します。

 

提示される情報が偽りならそもそも正確な分析ができませんし、
ネットでそれが本当だと証明する術は
その人のネット対戦の友達であるくらいしかないと思われます。
その友人と口裏を合わせて接近してくるということだってあるので、
ネットで迂闊にこういう手合いに反応しないのがベストです。

 

そういう方は自分で自分の分析をしていただくしかありません。悪しからず。

 

それに、性格分析というのは
上記の自分の分析をみていただいて感じている方もいるかもしれませんが、
良い面だけではないのです。
人間の性格というのは、
良い面もダメで悪い面も含まれています。
ポジティブな面にもネガティブな面にも向き合うのが
自分の性格を知るということだと思います。

 

なので、おいそれと他人のそれを分析するなどしても良いことはありません。
ここは知っておいて欲しいとも思って今回、
この記事を書かせていただきました。

 

……そのうえで、少しいやらしいことを言うと、
使用キャラで自分の性格なんて分からない、
という人は、自分のダメな部分に向き合うのを厭うからこそ、
自分の情報を無意識に分かりにくいように補正、偏向させているだけで、
分かりたくないから分からないと言っているだけ、
という線もあります。

 

……人間の扱うこと、表すことは何事も繋がりがあるようで、
それは否定的な使用法としてもときに表れるのが人間であるようです。
……いや、余計なことを書きました。

 

使用キャラの傾向のばらつきについて。

 

けれど、そういう自分の情報を無意識にはぐらかしている他にも、
自分の使用キャラの傾向がばらつく理由はあるようにも感じました。

 

それは、おそらくですがこう考えます。

 

人によってはキャラの見た目や声、性格などで最初は入ると思うのです。
これはもう、使用感ではなく、
見た目などの二次元への嗜好の表れです。
ですので見た目や設定、属性など以外に統一感はないと思われます。
これは分かりやすい初期にあることだと思います。

 

そして、次に他人のプレイを見たりして、大体のキャラの技を見て、
この技を使ってみたい、
もしくはこの動きをするキャラが面白い、好み、
という感覚で触れるキャラが出てくると思うのです。
その技の好みは、その人の目的によってさまざまだと思います。
使った格好よさ、爽快感、使いやすそうという印象、
これなら有利に戦って勝てそう、という算段……、
それらを見て取ってキャラを選ぶ基準にすることもあるかと思われます。

 

そうしていくと、使う技の好みが出てきて、
上記の自分のように、使うキャラの技に特徴が出てきて、
好んで使うキャラに共通した特徴が出てくるようになってくると思います。

 

そして、格ゲーはプレイのやり込み度によっては、
さらに深化していくとも言えます。
格ゲーはそもそも勝負事であり勝つことが目的ですから、
その目的を達成するために
技に個性を表すよりも、より勝つために必要な手段に微調整したり、
これは控えるなどして削いだりして、
洗練し特化させていく人々がいるようです。

 

(格ゲー好きな方の中には、
全てのキャラを使って楽しむのが好きで、
特定の方向で勝つことばかりにこだわっているわけではない、
という人もいるかもしれませんが)

 

ここで見てみると、
使用キャラのリストにばらつきがある人は、

 

最初の
二次元キャラの好みのみで選んでいて、
それが時代(その人の年齢的変化)によって好みが変化しているか、

 

もしくは上記のすべての時期を総括した結果、
趣味で選んで、性格が出て、目的のために特化させて選んだキャラの
すべてがリストに入っていて、
だからばらばらで統一感がない、
とも考えられます。

 

ですからそういう方たちは、全体をまとめてみると
性格は浮き彫りにし難いと思われます。

 

自分は3番目の技に性格がでるので統一されるくらいの
やり込み具合で格ゲーを離れた人間なので、
むしろそういう条件で性格が読み解きやすかった、
ということかもしれませんね。

 

他にも性格というか分かることも。

 

上記で少し触れたように、
使用キャラのリストはその人のやり込みの変遷、
そして度合いも分かると言えるかもしれません。

 

他にも、
その人が求めているモノ、
見た目か、自分の琴線に触れる人格や生い立ちか、

 

キャラや好みの技の傾向から
技の便利さ、
爽快さ、
などその人が優先しているモノも見えてくると言えます。

 

改めていうと、
これは玄人になるほどに、勝つ目的のために
そうした個性を抑えて合理的なキャラと技傾向になるのではないか?
と自分は今回感じました。

 

そんなわかることで、自分の使用キャラからいうと、
属性的には

 

『蹴り』『刀』『ロボ』『厨二』

 

のようです。
なるほど、まったくもってその通り!笑

 

そんなことを考える機会になった今回のタグでした。
面白い気づきもあったので、
このタグをポストしてくれたどなたかに感謝を。

 

ではでは~。