1046ワークス24口

とーしろさんの趣味よもやま話の通用口。

「薄闇であがく奏者たち。夜明けへと伝えたいことのために。『四月は君の嘘』第17話感想・改稿」

 

アニメ『四月は君の嘘』の第17話の感想、改稿文になります。
おつきあいいただけると幸いです。

 

冒頭、かをりのショッキングなセリフからの続きで始まりますが、
この時は言葉もない公生に、
冗談だとはぐらかすかをり。
ですが、公生は直後何を聞くことになったのか?
そこまでの悲愴な言葉が出る理由だったのだとしたら、
それはやはりかをりの身の上のことか……。

 

だからこそ、今話ではかをりのお見舞いに行こうと誘う
椿や渡に公生は何度も拒否を述べます。
ここで周りに従うのではなく、自分の意思を告げるあたりは
自己主張が出来ているのですが、
しかし、あそこまで世話になったかをりのお見舞いに行かないことを
友人達はやや不審に思います。

 

それでも公生を元気づけようと
かをりのお見舞いに行こうかと切り出す椿に、

 

柏木さんは椿を応援するために
わざわざそんなことを言わなくても、と言いますが、
ここでの椿の言葉は
安易な攻撃や模範解答ではない、
自分なりのベストを模索して色々悩んでいて好感が持てます。

 

今回のサブタイトル『トワイライト』

 

これは言葉の定義としては

 

夕暮れや夜明け前の薄闇、
黄昏、
薄明り

 

などのようで、

 

本話は
幼馴染の弟みたいな存在という位置づけ、
かをりの状態?
それに公生と凪の気持ちの状態など、
色々なモノが薄闇のなかに差し掛かっているかのような
そんな全体の雰囲気をよく表しているように思います。

 

凪と公生の公園での会話で
誰かのためを思って弾くとき、
誰かと心を重ねたとき、
それが多くの人との場合も含めて、
音楽は言葉を超えるのかもしれない。
そう公生は考えいたりますが、
凪はそれをやや力なく『そんなの陳腐で、女は言葉しか信用しない』
と言いますが、
言葉で伝えられない思いがあるとき、
それを演奏で語る、表現するのが演奏者なのだと……
このシーンはそれを提示し始めていると改めて考えます。

 

ところで、今回のサブタイトル『トワイライト』は
スラングで『便所』という意味もある
("toilet"に発音が似ているため)
そうなのです。

 

これは凪がプレッシャーに耐えかねてエスケープした
シーンを表しているわけでもありますね。
そんな凪にかける紘子さんの言葉は、
悩んで迷って苦しんでいる薄闇のなかでも、
もがいてあがいた先にそれがチャラになる瞬間がある、と
トワイライトの先にある夜明けを示してくれます。
この辺は、すでに一人者である超えてきた者としての確信と、
その過程になる後人への労わりやエールを感じます。
過去の公生のことで指導者としては失敗した紘子さんですが、
そんな彼女の再生も改めての公生との関係や、
ここでの凪とのやり取りで見受けられると今回改めて思いました。

 

この言葉を聞いていないけれど公生にとっても
この紘子さんの言葉はここまでの旅路で経験してきたことであり、
彼が捕らわれていたモノトーンの闇は、もがいた先に
母への答えがあったように光を見つけ出せたのだと言えると思います。

それを導いびいたのはかをりであり、
そう考えたときに浮かぶのは、彼女がアゲインの際に述べていたこと。

 

この先は暗い夜道かもしれない。
だけど信じて進むんだ。
道を星が少しでも照らしてくれることを。

 

これは考えると、
トワイライトや公生のモノトーンのなかに見出した『星』その存在や、
届けたい想いを信じることが、
もがいた先の『なにもかもチャラになる瞬間』への鍵である、といえるかもしれません。

ここでは
凪にとっては『ヒーロー』を勇気づけたい、
がんばって、負けないでという
言葉では軽く見えてしまって伝えることに躊躇ってしまう伝えたい思い。
公生にとっては、
自分を導いた存在であるかをりを勇気づけたいという思いなのだと考えます。

 

……ここで思うのが、
公生にとってはかをりはどういう存在なのか?ということ。
自由な自己主張の憧れる存在。
尻を叩き舞台に引きずり上げてくれた、
再びピアノと母と向きなおらせてくれた感謝している人。
そして毎報コンクールでアゲインして公生が思っていたように、
公生にとってのかをりは
その交わした言葉のひとつひとつが星のよう。

 

それはこれまで
さまざまなシーンで力となり指針となっていたように、
公生にとって宮園かをりという少女は
『星のような標』
であったということだといえると思います。

 

暗闇にあった公生にとっての、
道を照らしてくれる
進むために信じるべきモノ。
それがかをりだったのですが、
ここで公生はその星が消えゆくかもしれないことを
なんとかしたいと思いますが、
病気といえば母のことが記憶にどうしてもある公生には、
かをりに何かしてあげたいのに会うことさえ躊躇ってしまいます。

 

それはどういう気持ちでしょうか?
公生にとってかをりが『大切な存在』であるということもあるでしょう、

 

かをりがあきらめていることを悔しく思う気持ちは、
尻を叩き無理矢理舞台に引きずりあげて、
忘れられない風景を刻んだ相手が失墜することへの歯がゆさでもあるといえるかもしれません。

お前ほどの奴が死んだらこっちまで死んだ気になる。そんなのは嫌だ、という気持ち。
そういうのもあったのではと今は思います。

 

でもやはり、それはかをり個人への価値ではありますが、同じ価値でも
今はまだ公生のなかでは明確な恋や愛情ではないということで……
公生のこの気持ちはいつ自覚されるのか……。
それとも彼なりの伝え方はされるのか……。
それ以前に、今のかをりに彼が出来ることが課題かもしれません。

 

そんな事情で
学校でかをりへのお見舞いに誘う渡に不愛想な公生ですが、
ここでアニメ放送当時の海外のアニメ視聴者の反応を少しみた中で、

 

渡にかをりが深刻であることを告げたシーンの彼の反応に対して、
「ベストフレンドだよ渡は!」
という好意的な意見の他に、
「渡は死の迫っている女の子の彼氏でいる負い目を感じたくないから、
公生にかをりを押し付けようという下心で彼(公生)に優しく声を掛けた」
みたいな言葉があって、
これは穿って見過ぎというか……と当時から思って見ていました。
実際に渡がどういう気持ちでかをりと公生を見ていたかは、
原作最終話での渡の様子を見れば知ることができます。
公生が第1話で言っていたように、渡はいい奴だよ、です。
 

渡の言葉に励まされて公生はかをりのもとを訪れます。
そこでのかをりの
「忘れちゃえばいいんだよ」
には公生の怒りも当然だったでしょう。

 

一緒に暗いならないで
諦念ムードのかをりに
よくぞ怒ってくれた、と思います。

 

前述のように、自分を導いてくれた人が死んだようになるのは
本当に悔しいですし、
ここで公生まで母の病気のリプレイのようなことになると思って悲観して
黙りこんでしまわなくて本当に良かったです。

 

自分を導いてくれた人がそんな風になったら、
ぶん殴ってでも再起させたい。
それが『かけがえのない誰か』への想いの大きさ、
価値の重み、存在の大きさだと思いますから。

 

そこで公生がかをりに
言葉では伝えられないけれど伝えたい想いをどうするか、
で思い至ったのが
音楽であり、
『連弾』……共演だった。 

 

他の人と一緒にシンフォニーを奏でる様を見せ、
それを聴かせることで、
演奏者として言葉ではなく音楽でかをりの心に届けたい想いがある、
という事なのでしょう。きっと。

 

凪のエスケープからの立ち直りを経て、
いよいよ学園祭当日です。

 

公生と凪(凪と公生の方がより正しいのかもしれません)
の出番が迫ってきて緊張気味の凪。
これまで一所懸命にピアノと向き合ってきたからこそ、
舞台でその演奏を披露したときに
否定されたりミスすることが怖い……
打ち込むほどにその反動は大きく、気持ちがよく分かります。
時間をかけて届かないときの打ちのめされ方は
どんな時にもキツイですし、
これからそれを試される場に出るわけですから緊張して当然です。

 

そんな凪の緊張を解きほぐす公生に
凪は膝入れていますが、
自分の手を取る公生の手から、彼もまた同じように緊張していることを理解する凪です。

f:id:itotetsu241046:20200110171810p:plain

 ©新川直司講談社/「四月は君の嘘」製作委員会

 
これまでも練習や帰り道、神社での遊びや会話を通してありましたが、
これから二人で舞台に挑む凪と公生の心が重なっていくシーンですね。

 

ここでの二人の会話で公生は以前かをりに与えられた言葉を
凪に与えていますが、
『君の人生ありったけで弾けばいいんだよ』
に公生なりのつけ加えがあるあたりに
公生が受け取るだけの側から教えて与える側にも入ってきているという、
彼の成長を感じます。

 

先輩風を吹かすとかじゃあなく、
同じ立場の人間としての労わりがパートナーを乗せることになっている、
そして二人で最高のシンフォニーを奏でる。
それが公生と凪にとって演奏で誰かへ届けたい想いになるし、
伝わりうるのかもしれません。

 

そんなくる学祭のいよいよ共演が開幕です。 

 

ではまた君嘘の感想で~。

 

 

 

「英語という存在から学んだこと。「わたしと英語」」


お題より、「わたしと英語」で書かせていただきます。

 

自分は英会話に関しては中学の時点で
文法から入るスタイルが歯抜けな覚えかたでポンコツだったので、
英語の成績は平均より下、英会話など全然の英語劣等生です。

 

そんな自分ですが、英語の文章や単語自体は
本や音楽、映画などで触れるモノに興味がわいて調べて、
それを知る楽しさを感じることが出来たので、
特段の苦手意識があるわけではありませんし、
職業に活かせるような人はすごいと思いますし、
こちらが苦手に思うことをそこまで興味を持って勉強した方々は尊敬します。

 

そういう距離感の英語なのですが、
そこから自分が学生時代を経て学んだのは、
自分の本題の目標のために必要なら積極的に学べばいいし、
他の何かに力を入れたいなら、
ある程度英語の成績がよろしくないのは目をつぶる、
そういう割り切りも別にいいのではないか?
ということです。

 

それはある種、自分の限界へのあきらめとも人は解釈するかもしれません。
ですが、
全ての項目をまんべんなくうまくやったり、
すべてハイレベル、
という万能な人は実はそう多くないのが現実で、
むしろ世間が『そうあった方が価値があるから目指しましょう』、
目指そう!という風潮になっているにすぎず、
すべての人がそう在れるかというと、現実にはノーです。

 

ただ、そういう風に向上心を持つからその中から
ハイレベルな人が出来上がってくるので、
決して意味のない風潮ではありません。

 

しかし、そこで全部を高度になれない、
モノによっては――この場合は英語でしょう――
奮わないモノがあるという人の方が大半で、
そうなったときにどうすべきか?を世間はなにも提示していません。
向上を推奨するだけで、それに破れた人のケアは各人で、が世間です。
そうなったときに、劣等感から腐ってろくでもない犯罪を犯したり、
そこまでいかなくても他者攻撃をして憂さを晴らし、
それによって傷つく人が結構生じているのもまた現実です。

 

こういう時、自分がくさくさしそうになって思ったのが、
出来ないことはまあで出来ないし、そこに拘泥していないで
他の自分の伸ばしたいところを伸ばしましょうか~、
ということでした。

 

もっというと、
一番の目的のために伸ばしたい能力(場合によっては教科)かを
自分のなかで優先順位をつけ、
英語はそこまで必死になって伸ばさなくても良いので、
自分の目標に沿う能力を伸ばそう、その取り組みに力を入れよう、
という割り切りをしたのです。

 

なんでも万能にできて人から高く評価されて
そんな自分を誇らしく思い自尊心を感じる……
というのも、それが一番の目標、目的であるなら、
その人はそれをすればいいと思います。
(自然にそうなった人というのはよほどの才覚ある人なのでしょう。
現実にそういう人は多くの中から必ず生じてきます)
それが至上の価値、その人の幸せということもあります。
ただ、多くの場合それは推奨されるだけで、
現実には幻想です。すべての人が万能にできるわけではないのです。
シビアなことを言うようですが。

 

ですがそうあったときに、
自分の最大目標のために何かが奮わないのは看過する、
それよりも万能に出来ない自分の能力でも
最大目標のためになる能力(場合によっては教科)を伸ばすことに集中する、力を注ぐ……。
そういう考え方や姿勢、取り組み方もアリなのだと思います。
(少なくてもそれをダメという法律はないです)
そうやって伸ばしたことが何かに繋がっていくことも人と人生にはあると思いますから。

 

自分にとっての英語は
自分がすべてを高いレベルでうまくやることにこだわらないという考え方を持ち、
(同時にそれは自分はそこまでの人間ではないという諒解、受け入れをして)
自分の一番の望みのために出来ることをしていくために
『必要な割り切り』を学び取ることになった存在でした。

 

あれもこれもできるようになりたい、
という気持ち自体は分かるんですよね。
色々できると自分の力を確認できてそんな自分に胸を張れる、
自尊心を感じられるのはみんなありますから。
それも一つの価値、幸せなのだと思います。
ただ、あれもこれもと手を伸ばして、結果として
時間とエネルギーを分散して、自分にとっての一番の望み、
一番の価値、幸せのための取り組みとそのエネルギーが
十全ではなくなるというのも考えものなのだと思います。

 

英語に興味がある、英会話ができるようになりたい!
英語を仕事に活かしたい!
という積極的な気持ちで英語に取り組み、
その能力を伸ばすのは大変良いことだと思います。
ただ場合によっては無理してそれに時間を割く以外の選択肢も
人生にはあるのだと、
何かを犠牲に、対価に他を伸ばす選択肢もあるのだと、
そういうことを学ばされたのが自分にとっての英語だったかもしれません。

 

そんな「わたしと英語」でした。
これを読んだどこかの誰かの、
本当の目的へのより良いトライに繋がることを祈ります。

 

ではでは~。

 

アルク #トーキングマラソン 特別お題キャンペーン「わたしと英語」

アルク「トーキングマラソン」×はてなブログ 特別お題キャンペーン
by アルク「トーキングマラソン」

「読書感想 『新約とある魔術の禁書目録 14巻』 鎌池和馬」

 

 突如運あらわれ魔神たちを撃滅した上里翔流。
その魔神さえもダース単位で倒せる絶大な力、《理想送り》(ワールドリジェクター)は
上条の理解者たる元魔神オティヌスもその右手で葬ろうとする危険が浮上。
その上里の問題に、バードウェイ姉妹の問題も絡んで
上条対上里のヒーローとしての救いの対立が描かれる。

 

能力的には上里の方が上手。
しかし上条にはこれまで積み上げて幼い少年ながらも辛苦を経て学んだ救いの信念、主張がある。

 

 木原脳幹を失って絶叫する面々。
その 『当たり前』 を学園都市の計画のためにこれまでどれくらい生み出しているのか、
と思ったがアレイスターはだからこそ計画に固執し絶望と苦悩するのだとも本巻では分かる。

 

 上条のような優しさはだからこそ理不尽であふれるこの世界に必要といえるし、
アレイスターの計画のように、
巨大な理不尽という壁に抵抗するには小を切り捨てる深慮ある考えや行いも否定できない面はある。

 

 アレイスターは学園都市の暗部を生み出し放置、利用していることからも行いは悪だが、
しかしそれも全面的に否定すべき本当の悪なのか? 
本巻は、いや、とあるを通して 『救いとは』 『やさしさとは』 
『ヒーローとは』 『善と悪とは』 といった
人間の営みに関する命題にも世界の成り立ちと科学魔術を通して本作は取り組んでいて、
本巻もそれについて考えさせられたといえる。

 

 ただ、上里勢力のラノベな日常は読んでいてしんどかった。
ああいうラノベアニメしたのは一人のカットで十分です。
二人のヒーローのそれぞれのこうしたスイーツな日常を紙幅の半分くらい描かれて、
途中で胸焼けした珍しい読書となりました。
ああいうのは上条さんだけにしとくれにゃあ。


ではまた次の本の感想で。

 

 

「公生とかをり、二人の想いはどうなるのか……。『四月は君の嘘』第16話感想・改稿」

 

アニメ『四月は君の嘘』第16話の感想の改稿文になります。
おつきあいいただければ幸いです。

 

前回のラストはかをりのショッキングなシーンだったので、
心の安定のためにも少しそこから離れた映像だとよかったのですが、
けれど冒頭は今回のかをりが入院することになったガラコン前夜の
家のなかで倒れた様子が描かれています。

 

ここでも突然足にきてふらついて、
頭部を壁かどこかに激突させての流血……からの意識喪失で救急車……
だったようです。

 

色々な方がかをちゃんの病気は結局なんだったのか?
ということをお考えになっているようですが、
個人的には病名の特定はあんまりこの作品的には
意味がない気がしているのでそれには加わらなかったのですが
(いや、かをちゃんほどのヒロインを苦しめたにっくき病の
名を心に刻み、それに苦しむどこかの誰かに何等かの援助に繋げる、
という考え方ならそれも激しく同意なのですが)
こうした症状から専門的な知識と照合してある程度しぼることは
出来るのかもしれません。

 

でも本当、自分にとっては本作のラストはかをちゃんの過程を忘れないという意味でも
受け止める形だったので、ラス後に原因云々でもめるのはちょっと……
というスタンスだったのです。
その辺は今もあまり変わっていません。
余談でした。

 

ところで、かをりのどれくらい前からの症状か判かりませんが、
その対策のように彼女の家には廊下などに手すりが設けられていますね。

 

これ実は、もうだいぶ前になりますが、
母方の祖母が自宅療養する際に祖父が階段に設けていたので
既知の案件だったりしたのです。
というか、今もまだ階段に備え付けてあるようです。
結構年齢をいっていたのも加わって身体を難儀そうに動かしていたのを覚えているので、
それらからふらついて転倒することへの対策だったのでしょう。
そう考えるとかをりがちょっとした弾みでよろけて危機に陥ったのも納得できます。

 

そんなかをりに迫る深刻な現実を知らず、
女子中学生の凪といちゃこらしている公生(語弊がありまくる)

 

手加減すんなよ、という紘子さんの言葉に
凪に対して容赦の無い指導をする公生は、
もうだいぶ自己主張を当たり前にする人間になっていますね。

 

それは相手への言葉だけではなく、
楽譜はどういうモノか?
という音楽論に対しても凪の言葉に
自分の考えを主張していることからもみてとれます。

 

けど、容赦ない公生の指導に対してもあるのでしょうし、
もともと有馬公生への敵意を潜ませている節のある凪は
隙のある公生の手に対して(ピアニストの手ですよ……)
攻撃性を含んだ視線を向けているんですよね。

 

f:id:itotetsu241046:20200110171747p:plain

  ©新川直司講談社/「四月は君の嘘」製作委員会

 

 

「あ!手がすべっちゃったっ」

 

とハプニングを装いピアノの蓋をおろし公正の手を挟んで……
という悪事を目論んでいるかのような危険な目です。

 

彼女も公生と同じピアニストならその行為の罪深さは分かりそうなモノですが……
それだけの公生へのネガティブな何かがあるのか……。
凪ちゃん……君は何者なんだ……。

 

ところで、先ほどの楽譜に関しての論議ですが、
凪は譜面に従い弾くことこそが奏者にとって必要、
という考え方を持っているようです。
これはかつての公生に重なりますね。
そんな今回のサブタイトルは『似たもの同士』

 

この新キャラの凪は、
公生とはまるで異なる小悪魔さや我の強さを持ちながら、
以前の公生と重なる部分がちょくちょく見られる役柄で、

 

公生がかをりと出逢い、彼女との交流で変わってきたさまざまなことを、
今度は公生が凪にも与えていくのかもしれません。
この辺は、「愛の悲しみ」の回での言葉、
『音楽によって繋がっている』
ということを表現しているのかもしれませんし、
公生と凪がかをりと公生のように繋がることで、
公生と凪のあいだにも新たな何かが生じるかもしれない……
そんな予感もあるような二人に改めて思えます。

 

それに、かをりのお蔭で変わったモノ、公生がかをりから受け取ったモノを、
今度は公生が、変わった彼自身が誰かに与えていく、
というリレーは、まるでかをりが公生の中に息づいているという風にも受け取れます。
 『僕の中に君がいる』
ですね。
ではかをりにとって
『私の中に君がいる』はあるのでしょうか?
毎報コンクールでの公生の変化したピアノに
「君がいるよ」
 と述回したかをりにとって、
かをりの知るかつての公生がいて、その公生が彼女に中にいるとも思えます。
この辺は現時点では情報が限られているのでもう少し先に進んでから触れましょう。
 

前回、凪と遭遇する前に凶兆でかをりへのお見舞いを延期した公生は、
かをりのことが気になっているのですが、
それを見透かしたかのように目の前に現れるかをちゃん。
これはドキリとする。
デスティニーを感じてしまいがちなシーンです。

 

ところがこれにも色々裏がある感じですね。
渡の待ち伏せといいながら公生を代役にお買い物三昧の開始。

 

公生がかをりと一緒で紘子さんのところにピアノのレッスンにこないので、
凪のレッスンをしない公生に彼女が声を荒げます。
紘子さんも凪と差し向かいのこの機会に
彼女の公生への敵意について言及します。
 

「公生に危害を加えたら、私がぶっ殺してやる」

 

そこまで公生を愛する紘子さんですが、
ならなぜ敵意を潜ませる凪を迎え入れたのか?
凪もここで紘子さんにそれを問うのですが、

 

公生には幸せなピアニストになって欲しい。
それが紘子さんの考え。
凪はこれまでの悲しみ以外の何かを公生にくれそうだったから、
と彼女は漏らします。

 

これには凪も微妙な気分です。
何等かの公生への遺恨で彼に対して敵意を持っている凪ですが、
有馬公生ってこういう人間だったの?
ということを少しずつ知って、果たして彼女は何を思うのか。

 

それとこのシーンの紘子さんのいう
『幸せなピアニスト』
ってなんでしょうね?
幸せも色々定義がありますが……公生はどんな幸せを見出すのか……
「愛の悲しみ」の演奏で母との繋がりとそれをピアノに見出した公生にとっては……?
それはラストまで追って確認しましょう。

 

公生とかをりの二人は買い物を済ませて学校に鞄を取りに来ますが、
その時の

 

「嘘か!嘘ついたんか!?」
「鞄は学校にありましぇえん」

 

のやり取りが面白かったです(和み
カーテンのヴェールで嘘を演出するのが良いですし、
カーテンに隠れて涙目のかをちゃんが可愛いです。

 

それから学校の備品の自転車二人乗りでの帰り道。
公生もかをり同様に、この二人の時間の永遠を願うあたり、
公生のなかでの宮園かをりの定義は
徐々に『憧れ』から変化してきているようですね。

 

きらめき消えゆくさだめの流星を見る二人が
互いに内心ではこの瞬間の永遠を願う。
これを『ピアノの詩人』と呼ばれたショパンなら
どう奏でたでしょうね。
実はとても切ないシーンです…… 
公生がもしかをりへの気持ちを恋心と自覚したときに、
彼女が果たして健康でそれを遂げられるのか?

 

f:id:itotetsu241046:20200110171737p:plain

  ©新川直司講談社/「四月は君の嘘」製作委員会

 

そう想定したとき、
流星群の夜空のもとで涙をながすかをりの気持ちは
一体どんなモノだったのだろうか、と思いを巡らせます。
彼女がもし、自らの命の短さを知っていたならば……?
この場合公生でなくとも一体どんな言葉をかけてあげればよかったのか……。

 

そこまで想像はできなくても、
自転車の背中越しに聴こえるその泣き声が
とても辛そうだったとしたら……声をかけるべきではなかったのか?
それとも、ここで踏み込むことで、自己主張することで
何かが変わっていたのか?

 

例えば、かをりの実情を聴いた公生が違う気持ちでピアノに向かい、
かをりとの時間にこれまでとは違う態度が出たりとか。
いや、もし訊いたとして、かをりがすべてを告白したかどうかという問題もあります。
うーん、すべては必然……公生のここでの沈黙もやはり
のちの何かに繋がる意味があったのでしょう。 

 

凪の鞄についているマスコットが、
狸とスケルトンというのが、
今回のラストで明かされる彼女に近しい者との関係性を表しているようです。
 

狸が凪で、スケルトンがロックなピアニストの『ヒーロー』という。
その二つをセットで持っているあたりに凪の彼への想いが感じ取れそうです。

 

今回の『似たもの同士』は
前述の他にも立場的に届かぬ想いだったりもするようです。

 

果たしてこの二人の想いは形になるのか、どうなるのか。
公生にはかをりへの気持ちを明確にしてほしいものですが、
メアドを知らなくて、彼女のことを何も知らなくてと
ややブルーな気持ちは……少なくとも嫌いだったらそんなことは気にしない。
柏木さんのように
「じゃあ好き?」
と問われたら公生はどう答えるのか。
これはそういう話だと思うのですが……
そこは自己主張とは別の怖れなのでしょうかね。
恋に慣れていないと当たって砕けるのはむちゃ怖いですし、
(慣れていても相手への思いが強すぎると怖いのもあるでしょうし)
誰でも不安で怖くて、それで自分の気持ちに素直になったり行動できないこともあります。
ことに公生は言い訳ぐせがありますからね……

 

それに過去の演奏の舞台での大きなミスでやや自己肯定感もない。
コンクール常勝、天才と言われていたのも
母の言いなりの結果と彼は考えていたら健全な自信もそれほど……と、
色々考えられますが。

 

この気持ちへの回答は、
そして公生とかをりの今後は? 
……と気にしていたらまたもや不穏な空気をラストでぶっ込んできました……。

 

いちご同盟』のヒロインのセリフをなぞるかをり。

 

 「わたしと心中しない?」

 

これは当時の四月は君の嘘のアニメラジオで
佐倉さんも言っていましたが、
漫画原作の8巻はこれで〆だったので、
単行本派で9巻待ちの状態だった方々や
読み進めて手元に8巻までしかない状態だった人たちの
心の動揺は半端じゃなかっただろうと。
佐倉さん自体もそうだったという話でした。

 

というか実は、2014年の秋前から自分も1冊ずつ楽しんでいて
8巻ラストでこれだったので
翌日速攻で9巻を買いに書店に走ったのを覚えています。

 

ではまた次の君嘘の感想で~。

 

 

 

「NARUTOの岸本斉史先生の新作『サムライ8』……に対しての反応について思うこと」


今回は、Twitterでトレンドに入っていた
NARUTOの作者である岸本斉史先生原作の新作として連載されていた
『サムライ8 八丸伝』
……の、連載結果に関してのネットの反応について思ったことを少しだけ
書かせていただきます。

 

そもそも、NARUTO自体、忍界大戦でネジがやられたあたりで離れた人間なので
(特にネジがどうこうではなく、
ジャンプで追っていた他の作品の事情で)
週刊自体から離れたので作品自体には何も言う立場にはありません。

 

ただ、今回の件は
面白くなかった結果として連載終了となったとしても、
それをSNSで叩いているネット民たちを見ると、
好意的な意見もあるのですが、
どうも強者のミスをこれみよがしに手を叩いて喜んでいる感が
今回もか……という印象で、
正直、ネットのヲタクはまだそんなことをやっているのか、
と思いました。

 

ある歌詞で(若干変更して掲載)

 

世間は有名人が堕ちるのを涎を垂らして待っている連中ばっかりだ

 

というのがありますが、
これに対して、
強者を妬む一般的な考え方や気持ちは理解はできるのですが、
個人的に
今、世間の自分よりも何かで秀でている人に対してのネガティブな感情があるのなら、
妬んで足を引っ張ったりして憂さを晴らしてごまかしていないで、
自分のできる分野で少しずつでも出来ることをしなよ、
という考え方なので、
こういう手合いは……そういう格好わるいマネをしていて
いつか出会う大切な人に会ったとき、そんな自分は顔向け出来るのかな?
と思うのですよね……。

 

こう言って激怒する人も分かります。
恥ずかしくないのか?と正論でも恥をつきつけられたら
怒るのは大体の人の在り方です。
上記の強者叩きの人たちがそうして自分の人生の憂さを晴らしているとして、
こちらはそうした人たちを批判して叩いて憂さを晴らしているんじゃない?
という見方もできます。

 

ただ、現状じゃなくてもどんな時代でも不安で不満があるのはみんな同じで、
そのなかで今回の話題の岸本先生にしても
そうした人たちは、少なくとも
過去にも(それからも、そしてこれからもかもしれない)
そうした誰もが抱えるモノと向き合って、現実に対して自分にできることをした
結果として『強者』足りえたのですから、
そのことも踏まえて自分を見返してみて欲しいと……そう感じます。

 

やっぱり、自分の現実への怯みやそこからくる行動の不足をよそに、
『強者』足りえる事を成してきた人を叩くのはみっともないと思いますから。
 

そういう取り組みを正しくしている人は、
少なくとも苦労が分かるので安易にそうした他人を叩いたりはしないと、
経験的に思いますから。

 

……と思うような今回の件でしたが、
岸本先生のファンの方々には
(自分もNARUTO開始当初から熱をあげていた人間ですが)
Twitterでポストされていた方の引用になりますが、
NARUTOのペイン編であった
『3部作の2部作目は駄作であり、3部作目が良い作品になる』
ことを期待したいところだと思います。

 

しかし、世の中色々な価値観の人がいるから、
みんながみんなネガティブな考え方からぬけられるわけではないのですが、
こういうのを見るたびに
うーん……もうちょっとがんばろうやお互い、
と思ってしまうのです。

 

そんなことを少し書かせていただきました。
ではでは~。

 

 

 

「小説『隠し剣秋風抄』を読み映画『武士の一分』を鑑賞・感想。お題「最近見た映画」」

お題「最近見た映画」

 

日曜日は最近見た作品の感想を書いているのですが、
今回はお題スロットから「最近見た映画」の記事としても
鑑賞感想を書かせていただきます。

 

武士の一分

 

山田洋次監督、木村拓哉さん主演で話題だった作品ですが、
きづくと2006年公開作品で、
見ていないままそんなに時間が経っていたのかと今回驚きました。

 

本作は時代小説家として有名な藤沢周平の著書、
隠し剣秋風抄
に収録されている一遍、
『盲目剣谺返し』(こだまがえし)
の映像化作品です。

 

『隠し剣』シリーズは
藤沢作品でたびたび出てくる架空の藩、海坂藩において、
下級武士などの身分でありながら剣においては
流派の秘剣を習得した武士を描いた短編集です。
身分からくる悲哀を含んだお話や女がらみの問題もあり、
悲喜こもごものラストがいくつも見られますが、
時代モノファンとしては各話のタイトルが示すように
それぞれの主人公の繰り出す秘剣の正体にも注目してしまう作品です。

 

そんな『隠し剣』シリーズをこの1年ほどで読んで、
『盲目剣谺返し』が思っていたよりも温かなラストだったのと、
谺返しの秘剣がどのように映像化されているか気になったので、
このたび鑑賞するこにしました。

 

配信サイトを調べると、
ちょうど今の時期にGYAO!
3月2日~31日まで無料配信、視聴可能となっていたので鑑賞してみました。

 

今はGYAO!で他にも期間を設けて無料配信しているラインナップもあり、
こちらはそれ関連の記事。

natalie.mu

 


では、前置きが長くなりましたが、
以下は自分の鑑賞感想になります。

 

本作は海坂藩で城勤めをする家禄三十石の下級武士である
三村新之丞が主人公。
新之丞は城で藩主の食事の毒見役をお役目としている。

 

小説はこの毒見で新之丞が毒にあたって盲目となってしばらくから始まりますが、
映画は全体で2時間あるうちの前半部分1時間を使ってそれ以前の新之丞の生活や、
周囲の人々との関係、
それに新之丞自身のことについても詳しく描かれ、
ただ下役の武士が運悪く盲目になって遭遇した事件としての作品ではなく、
三村新之丞という人間の感じる感情や、
だからこそ秘剣をもって戦いに挑み掴む結末を盛り上げている構成と受け取れます。

 

原作ファンの人によっては
余計な描写しなくていい、
とも思いそうですが、

 

前半では新之丞の妻、加世の人柄や詳しい身の上、立場、
それに夫、新之丞への愛情の深さが描かれ、
だからこそ中盤以降での不義の重みや
妻を利用された新之丞の怒りと、それに対しての意地と誇りの戦いに
視聴者は自然に感情移入できると思います。

 

いきなり妻が不義を働いて云々と言われても、
多くの人は
それ奥さんが悪いじゃん、と軽くみなして加世への気持ちのウエイトが
軽くなるとも思えます。

 

でも本作はラストで新之丞と加世の二人を描くからより良い作品になると思うので、
加世をよりフォローして描いたのはとても良いと思います。

 

それに前半部分では三村家の奉公人である
徳平の人柄と新之丞たちとの間柄の雰囲気がより描かれて、
新之丞の人柄がよく分かりますし、
徳平自体もよい人柄で、
だからこそラストでああなる……という説得力が増します。

 

新之丞は原作小説ではわりと固い人物かとも思ったのですが、
映画で割と軽口も叩いたりして加世と仲が良かったり、
町の川辺で子供をからかって徳平に窘められて悪態をついたり、
結構深刻さのない低家禄ながらも幸せに暮らしている彼が分かります。

 

それに毒見役なんて大した役割でもないので
さっさと城勤めをやめて
身分を問わない剣術を教えたい、
と新之丞の夢も語られるのですが、
だからこそありふれた日常から毒にあたり盲目となった時の彼の反動、
苦悩がより伝わります。

 

他にも前半部分は城内の様子も描かれていて、
城の台所風景は興味深いですし、
毒見役は新之丞一人ではなく複数いることや、
彼らのみなが低碌で端役についてかったるそうにしている雰囲気が描かれていて、
よりこの話が椿事からの悲劇であり、
さらにその後に続く苦難に挑む新之丞を克明にします。

 

毒見役はみんな「あ~、今日もかったりぃ仕事だな~」
という顔をしていたのに、
新之丞だけがこんな目に遭うという……、
目の被害に遭うという……。

 

その新之丞は目が見えなくなり、人の助けが必要な身体となり、
自分のことを自分一人でできず、人の情けを請わなければならない悔しさ、
情けなさを訴えます。

 

これは、武士としては自分の剣の腕や出世などで自分の力を確認していた時代ですが、
現代に置き換えても同じように思う人は多いことでしょう。
男子なら特に。
みんな人より勝りたいことの証明として自分のできることを成して力を実感したいものだし、
それなのにそのために励んできたことが一時に瓦解するのは悔しくないはずがありません。

 

まあ、個人的な考え方を書くと、
自分だけで色々出来る力もいいのですが、
出来ないことはあることを認めて、
人に助けられ、支えられていることを認めて感謝し、
自分の非や弱さを認めたうえで尚、そんな自分でもできることをする、
そんな強さも価値があると思うのですがね……。
まあ、価値観は人それぞれ……
必ずしも賛成の多い方がその人の正解とは限らない……。

 

そんな新之丞が腹立たしく、無力を感じる日常も
おしゃべりな叔母の報告で
妻の加世が茶屋街で密会しているようだと聞いて変化していく。

 

当初は城内で殿がみえたときに、
平伏する新之丞に対しては気の抜けた声で一言くれただけだった藩主に
視聴者もむらっとしたと思うのです。
新之丞はこうした屈辱にも耐えなければならないのか、と。
ですが
城勤めの毒見はお役御免、誰もが三村家は少ない碌で生かす捨扶持にされると思っていたが、
三十石の家禄も家名もそのままという寛大な処置。

 

ですがこれが妻、加世の不義とつながりがある気配。
もしそうならたかだか三十石の碌のために
愛する己の妻を奪われるというさらなる屈辱が新之丞に振りかかるわけです。

 

その真相は未視聴の方がいるかもなので伏せますが、
前述のように他人の助けの必要な新之丞にも
妻まで巻き込んでの屈辱に対して、
意地がありますし、プライドがある。
己の誇りと妻への愛、光を失いできることが限られて、
さらに屈辱にまみれた彼の、
それでも戦う理由、己の誇りと命を懸けた意志が盲目の彼に剣を執らせます。

 

ところで、演出面でいうと、
身内と新之丞の今後について相談している加世が、
上役で藩政への影響力のある島田へ頼みにいく、
という話がまとまったあとで、
襖を開くとそこには膳が用意されているのが、
加世のこれから辿ることを暗示しているし、
(彼女も暗い顔をしていたので、内心その可能性というか、
嫌な予感はあったのだと思います。
ただなあ……身内としては心のどこかでは
枕なことをしても良いように取り計らってもらいなさい、
という考え方も暗にあったのではないか?
と今の自分には思えます。
いや、うん、身内がそう考えていたら嫌ですが、
古今東西現実ありうるパターンであり、強要はしないけど、
行かせるのは半ばそういう意味合いもあるのではないか、
と考えることも出来るというか……邪推ですかね)

 

その加世役の壇れいさんは前半と後半でやや肉付きが違います。
前半はほっそりして綺麗だったのですが、
後半は肉がついてややただれた雰囲気があります。
これはそういう演出で役者に肉体改造をさせたのか、
それとも撮影スケジュールでたまたま壇さんがそういう身体だったのか……、
映画はあまり詳しくないのでは自分には結論しづらいですね。

 

盲目となってのちの描写は少しずつ新之丞の変化も描かれて、
彼の見えない風景には変化の兆しの蝶が舞っています。
虫の気配や人の気配を鋭敏に感じるようになるのは、
一つが鈍すれば他の何かが長じる、という奴で
(『ルパン三世 血煙の石川五ェ門』で出てきたセリフです)
これが新之丞の流派の秘剣『谺返し』に繋がっていきます。

 

この秘剣は原作小説の方が無明の中で剣が閃いて敵をとらえ斬るすごみがあります。
映画は剣戟の結果の現象を二人の剣士の全体の動きを映すのみにしていて、
結構あっさりとしていたとも言えますし、
新之丞と島田の決着も原作と映画では多少異なります。

 

映画の方がより『武士の一分』というワードに沿うように変更されています。

 

個人的に果し合いのさなかに新之丞が気組みを発した声が
木霊となって反響するのはおお、とぞくりときました。

 

果し合いの決着ののちの新之丞の生活風景も原作と少し違います。
加世のアクションも違うのですが、
ここはより夫婦がしっかりと愛を確認して勝ってのラストとしたのかもしれません。

 

小説のラストもとても良いのですよね。
聴こえるモノだけで新之丞が生活に温かみを感じている
幸せな風景をより感じられると思います。
聴こえるモノ……自らの示した意地、武士の一分によって返ってきた『谺』だともとれます。

 

この変更は好みが別れそうですね。
自分は小説のラストが大変良かったので映画を見てみようと思ったのですが、
映画もこれはこれで良いと思います。

 

むしろこれは、映画から小説に入った人に対して、
小説がとても新鮮に映るという仕掛けかもしれませんね。
小説ファンのための映画というよりも、
映画から小説に入った人に藤沢周平先生をより好きになってもらうという意図から、
映画はこういうラストに演出された……と、そうも考られそう。
そんなことを感じました。

 

作品としては
当時はキムタクの力による客寄せの映画だろ、
という声があったように記憶していますが、
しかし時間をおいて冷静に時代劇作品としてみると、
結構良い出来だと思えた作品でした。

 

本映画を鑑賞して、
『隠し剣孤影抄』に収録されている『隠し剣 鬼の爪
山田洋次監督で時代劇三部作として映画化されているということなので、
そちらも見てみようと思います。

 

本作に興味を持たれた方、
前述のようにGYAO!で今月中は無料視聴できるので、
良かったら見てみてくださいまし。
(無料で作成できるアカウントさえあれば視聴できます。
自分も垢があるだけで普段はほぼ利用しませんが、
今回、ちょうど今の時期に無料配信中と知りそのような形で鑑賞させていだきました)

 

ではでは~。

 

 

 

「色々ありますが何よりかをりが……。『四月は君の嘘』第15話感想・改稿」


アニメ『四月は君の嘘』第15話の感想、改稿文になります。
おつきあいくださると幸いです。

 

今回は大きなポイントがいくつかありましたが、
なかでも一番大きな衝撃はラストにきます。
そのあまりの衝撃に他のあれこれの細かな感想を書くことに
あまり意味を感じないくらいです。

 

ですが、今話も君嘘キャラたちのさまざまな思いがあふれているので、
道を極めるの精神でいきますので、どうぞおつきあいください。

 

虹色の泥団子が砕けた過去の出来事は、
公生が進学によって離れていく椿を表していますが、
その椿はもう自分の本当の気持ちに気づいて斉藤先輩とは
これまでのようにまともに会話できません。

 

柏木さんが言っていましたが、
迷いが表に出やすいタイプのようで、
そんな椿を斉藤先輩は二人の付き合いも潮時と見たのか、
辛そうな椿に先んじて別れ話を切り出します。 
自分から振るという形で悪者になる斉藤先輩の優しさを感じます。

 

ただ正直、椿と斉藤先輩の別れは時間の問題という感はありましたので、
多くを言いますまい。
最初から100点満点の恋愛ができたら苦労しないよ、椿……。

 

それから傷心の椿を夜の音楽室で『月の光』を弾きながら
「いてもいなくても一緒なら……」
と寄り添う公生は、
ここでも彼なりの自己主張がなされたともいえます。 

 

このシーン、相変わらずどうしてこの時間帯の学校に這入れるんだか
というセキュリティゆるゆるが気になりますが……、
椿が音楽室に行ったのは公生に話を聞いてもらいたかったのもあるのでしょうかね。
その辺は、椿も少しずつ自分の気持ちに対して進んでいるのかもしれません。

 

本話は他にも超えるべき目標である公生をしっかりと見定めた絵見が
躍進を遂げていることや、
それとは対照的に公生の今の在り方に対して迷いのある武士が描かれます。

 

絵見はガラコンでの公生の覚醒をみて
「強敵をぶちのめす」
ことに燃え滾るやる気を出してきたのでわかるのですが、
ここで武士がイマイチさがるのは何故か?と改めて考えます。

 

考えられるのは、
超えるべき目標としていた公生がまったく違う演奏をしていたことで、
あれ?自分はあんな演奏の有馬公生を超えたかったんじゃないんだけど、
このまま打倒有馬でやり続けていいのか?
という自身の指針への迷いが生じたこと。

 

他には、自分は有馬公生の演奏に憧れて今のピアノスタイルを磨いてきたけれど、
有馬自身が彼のスタイルから変わってきて、
相対的にも自分の演奏はこれでいいのか?と
演奏の価値観が揺らいでいることから、
どう弾いていいか迷いが生じてきたという線。

 

もしくは、変わった公生の演奏に感じた衝撃に、
これまで通りの演奏ではいけないのでは?
変わり始めた公生の演奏に
彼がこのまま成長すれば今の自分の弾き方ではダメだ、と感じて
自分のスタイルを信じることに迷いが生じてしまったか……。

 

いずれにしても、武士はこの迷いにどう答えを見出すのか?
武士のピアノと、武士のとってのピアノそのものである公生への
アンサーが待たれます。

 

他にも当然今回は、藍里凪ちゃんの登場もポイントとして挙げられます。
木の上から公生に呪詛を送っていた彼女が、
紘子さんと出会い、弟子入りを申し出る。
それで弾いたのはショパン エチュードop.25-5
公生がコンクールで三度変化して弾いた曲。
ですが刺々しい演奏と、
潜入成功という心の声をだす彼女に、
公生に近づいて何かしようという意図――場合によっては悪意――
を感じます。

 

紘子さんはいち早く彼女の正体に気づき、
それでも凪を受け入れます。
彼女が何をもたらすのかをある種、前向きに期待して。

 

そんな各キャラたちのあれこれが描かれた本話。
けれどですよ、けれど!けれどけれどけれども!
 

それらがあったことを一気に忘れるかのような
かをりの身に迫る危機!

 

お気楽な「ぬーぬーカヌレー♪」
の鼻歌からの落差……
これは辛い……。

 

公生と明るく元気に電話をしていたかをりに
突然に襲い来る病魔……病院のリノリウムに膝を折り、尻をつく。
 

かをり自身も「あれ!?……あれ?」
と驚いていたように、
もしかしたらここまでの症状はこれまではなくて、
突然にきた自由の利かなさだったからこその恐怖であり、
その恐怖はいかほどだったかと思うとこのシーンの怖さや重さが倍増します。 

 

誰もいない昏い廊下で汗をかいて、呼吸を乱す横顔のこのシーン。

 

f:id:itotetsu241046:20200110171729p:plain

 ©新川直司講談社/「四月は君の嘘」製作委員会

 

 

フォーカスした人物がぶれる演出
(何という技法かは知りませんが、心理描写の演出としてたまに見ますね)
がされていて、
かをりの心の動揺、怖れと不安に揺れる心情が
より見ているこちらに伝わってショッキングなシーンでした。

 

かをちゃん…… 、
原作漫画を読んでいてアニメで今回このシーンがくるのだな、
と分かっていたのですがそれでもキツイシーンでした。
いや、かをり役の種田梨沙さんの演技と
映像演出のせいでよりこのシーンは重かったです。

 

あの元気で明るくカラフルだったかをりが
本当にこの先どうなるんだ!?
という不安と慄きが詰まったシーンでした。

 

この衝撃で当時の感想では本話のサブタイトル、
「うそつき」の意味についてはまったく触れなかったほどでした。

 

……今改めて見てもこのシーンはやはり辛い……かをちゃん……。

 

その「うそつき」について今回の改稿で触れると、

 

椿をふった斉藤先輩の『好きな人』に関するあれこれは
椿をふるための嘘だったのか?
斉藤先輩の前で度重なるように公生のことを話す椿に、
彼女に本当にあっている相手は公生だと感じた先輩が、
身を引くために、椿を思って
部活に実際にいる女性マネージャーを『好きな人』に設定して
語ったとも考えられるかもしれません……、
サブタイトルを重んじるなら実際には、そういう性格の女性マネージャー、
ないし、好きになった人がいる、というのは
椿を思って悪役を演じた斉藤先輩の嘘だったのかもしれません。
ここはややグレーゾーンですね。そっとしておきましょう。

 

他には、
椿に対して「そばにいるよ」といった公生の言葉は、
椿にしてみると「私から離れていくじゃない」という思いから
彼女にとっては嘘とみなされたこと、
他にもこのシーンは椿によりそう公生ですが、
その本心は誰に向いているのか?
という椿にもうすうす公生の目に一番映っている人が誰かが分かっているからこそ、
公生の言葉が幼馴染の椿を思っての言葉でも、
本当の本当のところでは心無い嘘に感じたということもあると思います。

 

あとは、当然凪のあれこれです。
彼女のついている嘘に関しては今後のエピソードで明かされていくことと思います。 

 

などなど、みんなして嘘をついている回でしたが、
けれどラストのかをりにしてみれば、
この自身の現実こそ「嘘でしょ!?」
だったのだとも改めて思います。

 

かをりの今後を思うと辛い結末の可能性がありますが、
へこたれないで君嘘を最後まで見届けるために
当時の感想ではありったけの驚きを書いていましたが、
そうやって精神の安定を図る行動もときに必要なのだと、
そんなことを学んだ視聴でもありました。

 

 (創作物に身を入れ過ぎではあるかもですが(苦笑)) 

 

しかし本話は前話の椿に留まらずにヒロイン2人とも泣かせるとは!
なんたる……けしからん……!!

 

だからこそ凪のコミカルさが緩和剤の役目を果たしているのか、
と思いますし、
作品をシリアスで重いだけにしないバランスのとり方というのを
今回の話で学びとることもできた回となりました。

 

ここにきて登場した凪が公生たちにどういう影響を与えるのか?
凪自身の青春にも興味を抱きながら次回を待ちます。
というか、かをちゃんが今後どうなるが気になりすぎるのです(震え 

 

ではでは、また次の君嘘の感想記事で~。