1046ワークス24口

とーしろさんの趣味よもやま話の通用口。

「けものフレンズ最終回を迎えて、色々考えたことまとめ」

けものフレンズ

アニメをよく視聴している方は、

大変好評だった冬アニメとして記憶に新しい作品ですね。

 

かくいう自分も、2月頃にツイッタで

 

フリーザさまに向かって

「君はせんとう?がとくいなフレンズなんだね!」

と言うかわいいサーバルちゃんに和むマンガや、

キン肉マンのコラマンガの

「アプリから入ったフレンズも、アニメから入ったフレンズも、

それぞれ違っていいよね!」

ようこそジャパリパークへ‼」

というのを読んで、

 

 

となって、バンダイチャンネルさんで月額見放題になっていたので、

視始めたんでしたよ。

 

そして、色々あって11話、最終12話。

自分のツイートより抜粋。

 

けものフレンズ10話視聴。

……いや、EDがどうこうとか考察いいです、

もうただただ、サーバルちゃんがまた泣くことがない決断を、カバンちゃん……。

それにこそ、人の知恵を見せてくれ……。

 

当初からいいEDテーマだなー、と思っていたけれど、

ここに来てその歌詞の重みがハンパない。

君嘘の経験があるからか、テーマソングの象徴性を軽く見れない。

あの笑顔を守るために、カバンちゃんにはどこまでも走って欲しい。

 

自分はサーバルちゃんを救えるモノが人間の叡智のひとつ、

未出である「医療」だといいなと思うが(ボス経由でストレッチャーを実践するとか)

じゃあ現状カバンちゃんはサーバルちゃんを庇ってどう立ち回るのか

……そもそも無事なのあのED前は!?

いや、グレートジャーニーはきっと果たされる……涙

 

などなど思ってそわそわわくわく、不安で気になって1週間を待ち、

水曜日はネタバレが怖くて、

いけないことと思いながら非正規の方法で速攻で視聴し、

むっちゃ熱く楽しく視ていました!

 

そんな、けもフレ最終回ののちに、自分がちょこちょこ考えた

けものフレンズについて』を少しまとめました。

 

この記事が、けもフレをより愛し理解する何かになれば幸いです。

 

最終回のアレは……?①

 

どうにか救出されたカバンちゃん。

手袋とタイツが剥けて肌が露出していましたが、

ラストに近づくにつれてその指先などが黒く染まりだしていました。

 

これは、一体どういうことだったのか?

 

 

という見方も出来るかもしれません。

けもフレは人間と動物の物語であり、

同時に共生、共存の理想像の模索にも受け取れます。

これは、アニメ業界と視聴者という、

需要と供給の両者のそういう関係を顕わしていた、

という描写、演出だったのでは?

という自分の意見でした。

 

けもフレって……。①

 

けもフレOP曲、『ようこそジャパリパークへ

をレンタルしてきてPCでコピーしたのですが、

そのメディアプレイヤーはこんな表示がされていました。

皆さんも、出来たら確認してみてください。

 

 

 

最終回のアレは……?②

 

このまとめ、良いですね(*´▽`*)

 

 

で、思ったのですが、

 

 

ではないかな、と考えたりしました。

 

 

けもフレって……。②

 

 

しかし、そこからまた考えるわけです。

人間と動物の『共存』とは、果たして本当に出来るものなのかどうか。

 

トキとアルパカ、ビーバーとプレーリー、

ライオンとヘラジカなどなど

けもフレでは、各話で異なる種の動物たちが

共に在ることを選んで行っていたのは、ご存知の通りです。

 

そこで『共存』ですね。

 

人間の生活環境に動物を入れると、

その動物の行動が人間にとって害や迷惑にならないように、

彼らを(ある程度)管理し、制限しないと

人間社会に問題が生じるのはお分かりいただけると思います。

 

それって、動物の在りのままの命を人間のエゴで勝手にしているわけで、

それを共存というのは、いささか上からの傲慢であるように感じる部分もあります。

(完全に人間の立場を否定する気は当然ないのですが……)

 

となると、サファリパークなどの限られたスペースで、

動物の本来の生態を再現し保って、

ある程度の人間が出入りできるようにする。

そういう、互いのおとしどころを見つけるというカタチで

『共存』が出来ているというのが、

現代までの人間社会と動物の『共存』なのかもしれません。

愛玩動物を共存ととるかの解釈には言及しません)

 

それが、人間の出来る限界であり、

完全に融和しないのが、

異種である人間と動物のそれなりの在り方なのかもしれません。

人間同士でも、過干渉になると色々ひずみが生じますからね。

 

ところで、『擬人化』というモノについても少し考えたのですが、

アレはそもそも、

物や、動物などへの人間の愛着や、愛そのものの反映のように思えます。

 

それは言い換えると、

相手がこちらと同じレヴェルでモノを考え、

立場や感情、都合を理解し、言語と行動でコミュケーションをとって、

配慮してくれる知性を持つ、といのが擬人化であり、

人間と異種などが共存する世界を仮定するうえで、

最も都合がよく、ロスが少ない手法だ、ということになると思うのです。

 

(言ってしまうと、一面で

擬人化はかなり人間のエゴの都合のいい産物だ、とうことになりますが……)

 

そういう擬人化ですが、

これはけものフレンズたちで言うと、

彼女たちが動物として人間と一緒にいられる、

ロスと害の少ない、

一種の理想形であると言えると思います。

 

ジャパリパークは、人間と異種の 『共存』を実現する、

理想の場、ということになると考えられます。

(サンドスターなるモノがそれを実現させた世界、というわけですね)

 

これをもう少し広げると、

カバンちゃんとサーバルちゃんの旅。

グレートジャーニーとは、

人間と異種、動物たちの理想郷を探す旅路を描いた物語

ということかもしれません。

 

これをリアルな世界で

もし人間と異種・動物間で

人間とジャパリパークとフレンズのような存在での、

より相互によい共存が出来るとしたら、

こんな想像もします。

 

技術が進歩して、動物の感情を機械的に文言化して自動でアウトプットし、

同時に動物側にもイメージとして人間の言語が理解できるような、

そうして動物と人間とのコミュニケーションが図れるデバイスが生み出されたら……。

(サンドスターはそれを実現した存在ということになる)

それを通して人間と異種動物の関係が進歩する、

というようなことも、起こり得たりとかー。とかとかー。

と思う訳です。

 

まあ、それもしかし、

動物の自然のままに介入し、余計な知恵と感情を与えるのも、

人間のエゴに感じなくもないですが。

 

実際、どうでしょう?

ペットなどと気持ちが通じ理解しあえたら……。

それは、全部が全部良い事だけでしょうか?

ハッピーな面だけでしょうか?

それを思うと、獣と人は、本当は一緒にいるべきなのか、どうか?

 

自分の話をしますと、

今年の4月末でウチ猫が丸11年、

ウチで暮らして一緒にいるのですが、

その中でこちらが幸せな面もありながら、

ネコの足を誤って踏んだり

(立っていると足に絡みついてきて、その拍子にたまに)

ドアを開けた拍子にドアが猫に激突してしまったり、

他にもまあ、色々あったわけですよ。

どったんばったん大騒ぎですよ。

 

それに、もうそれなりの老体で、

眠そうな目をしていることが多くなりましたし、

高いところに登るのが難しくなってきて、

これまでのようにひとっ跳びにぴょいとはいかず、

台を使ってよいしょよいしょと登っているくらいです。

 

老けるのは当然なのですが、

それでも、

ミイ太よ、おまえはウチらと共に在って幸せだったかい?

と思います。

 

これで、幸せな面もあったのでは、

と思うのすら、人間のエゴなんでしょうと思うのです。

 

やれやれ、ですね。

むずかしく考えないで、

その愛らしいふさふさで小さい頭や

丸い背中やふかふかのお腹を撫でてやればいいのでは、

とも思います。

 

これは思考停止でしょうか。

どんぞぉ~、お茶でものんでぇ~。

 

 

ひと休み。けもフレマンガ。

 

illust 170325

 

 

けもフレらくがき。

手をとって大冒険って、

ずっと四月は君の嘘的なこれだと思ってたんですが、誰も描かないので。

ジャパリパークに迷い込んだ日、ぼくは君と走り出す。

みたいな。

二人なら世界は息を吹き返したんだよ!!!

 

 

もうちょっとけもフレから考える。

 

さて、けものの愛らしさに思考停止しているとして、

ではと、もう少し考えるます。

 

そもそも、完全な棲み分けが出来るほど、

人間も統制がとれていない未熟な存在だというのが実際だと思います。

そして、動物を管理するカタチになっても、

向こうにすると食べ物をくれる存在に、

動物も警戒心を完全に払拭できなくても、それほど悪意は抱かないで、

サーバルが人になつくこともあるように、

人に好感を持つ個体もいたりするわけです。

 

そこにあるモノを視ると、

人間が動物を狩ったり、愛玩したり、他にも得る利益があって、

動物にしたら迷惑に感じることもあっても、

少しはギブアンドテイクといえるな気もします。

(まあ、本当に大自然でサバイバルが日常な獣にしてみれば、

地力で自由に生きるけれど飢えや危険が多い生活と、

人間に利用されるけれど食べる物にはあまり困らない生活と、

どちらが『良い』のだろうかでしょうけれど)

これが、人間も動物も自然界の連鎖の一員、

ということでしょうか。

 

そしてこのギブアンドテイクは、

人間が人間に接し共に在ることにも言えること。

人間関係って、関わる人などを通じて、

自分の『幸せ』を追及するものですから、

だから人は、

”最終的には自分の幸せにつながる人の為の行動”

をするわけですね。

 

動物と人間であろうと、

『人間』が他と関わるということは、

どうしても利と幸せの追及が根底にあるだということだと思います。

 

動物との共存は、

人間の幸せや、それによって人が幸福を得る動物への愛や

毛皮やパークで儲ける人の利の追及の一面の所業であり、

それもまた”自分のための動物の利の行動”

なのが実際なのでしょう。

 

これは人間がどうとか言い出すとキリが無い事柄ですし、

本能で生きる動物と、高度な思考能力を持ち善悪やエゴを持つ人の

違いでしかない。

どちらも、命があって活動しているうちは、

自らの実現しうる幸福を求めているに過ぎないわけです。

となると、それは一片や一辺の重なりで人間と動物、

互いの幸せにも通じるのではないか。

 

動物にも動物の幸せの追及

――食べ物を求める本能というエゴ――

がある訳ですから、

人間と互いに求める幸福や利の全部ではなくても、

利の一致が一辺でもあって近しい場所にいるわけです。

(無論、ペットなどは囲われて選ぶ自由もない個体も時にいますが)

 

これは、いってみると、

利益があるからちょっと利用して一緒にいますよ、

というのが人間と動物の実際であり、

完全な相互の尊重という共存は異種間にはない、

というのが、

今の人間と動物の限界であり現実だということなんじゃあないでしょうか。

 

そして、人間とは個々が異種のような精神を持つ存在だからこそ、

人間同士でも相互関係はそういう解釈になる。

 

けものフレンズは、その互いの幸せの在り得るかもしれない

一片や一辺以上の重なり合いを実現して描いた、

空想世界の理想の在り方の物語だった、

ということかもしれませんね。

 

人であるカバンちゃんとけものフレンズたちの

相互の助けあい。

 

あなたの持てる力は、誰かを助けるため、

誰かの力になることのために発揮してみると、

それが巡りめぐって、窮地に駆け付けてくれる

『フレンズ』との繋がりを作ることになるかもしれない。

 

けものフレンズ

『共存』や『扶助』といった一貫したテーマでキャラたちを描き、

そういうメッセージを持たせたのかもしれませんね。

 

 

でもね!けものフレンズはね!

 

 

でも色々言ってもつまりは、けもフレ最終回を視て、こう思ったわけです。

 

 

 

いやー、本当大変面白く、楽しませていただきました。

すごーい!たのしー

 

ありがとう、たつき監督!

ありがとう、けものフレンズ

 

これからもどうぞよろしくねで、

カバンちゃんとサーバルちゃんの美しいモノを探す旅、

グレートジャーニーが続いていって楽しませていただきたいです。

新作にも期待!!!!!