1046ワークス24口

とーしろさんの趣味よもやま話の通用口。

「使用感想も兼ねての記事になります。お題「ちょっとした贅沢」」

お題「ちょっとした贅沢」

 

 お題スロットから、お題「ちょっとした贅沢」で記事を書かせていただきます。

 

自分としてはあまり実入りのいい仕事をしていないので、
贅沢自体はあまりしないのですが、
ここぞというときに単価の高い品を購入することもあります。

 

そんな自分がこの冬にした贅沢な買い物は、

 

高麗人参

 

です。

 

あまりいいモノを食べてこなかったことで体格に似合わず疲れやすいのですが、
その対策として2010年台は食事を改めるをテーマに色々少しずつ勉強して、
食から体力をつける基本である
しょうが、にんにく、砂糖含有率少な目のカカオ多めのチョコレート、
なども取り入れてきていたのですが、
この度、噂に聞いた
高麗人参』(こうらいにんじん)
を試してみようと思ってドラッグストアで買い求めてみました。

 

事前にネットで相場を調べていたのですが、
自分は購入に際して『3000円』を予算としていました。

 

ドラッグストアで
高麗人参にどういう種類がありますか?」
と店員さんに質問したところ、
値段以前に粉末の品を湯で溶いた品の試飲を薦められて、
味が受付なかったら無理して飲まない方がいいと言われました。
良薬口に苦しでもありますが、
割とお高い値段なので途中で味がいやで飲むのを止められたらもったいないそうなのです。

 

品としては流通していますが、
高麗人参はなんでも、
一本を作るのに畑ひとつの養分を吸い取り、
その後は少し畑を休ませないとならないという植物らしいです。
その品はたいてい、人参のかたちそのままではなく
漢方のようにすりつぶして粉末にして服用するので
そんなに品薄というわけでもないとは思うのですが、
それだけの栄養ある品を飽食の犠牲にするのはもったいない気持ちは分かります。

 

それに一本で畑ひとつ分の栄養が凝縮されているって……。
栄養価の高さが想像されます。

 

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https://shop.cosmospc.co.jp/products/detail.php?product_id=647

 

そんな高麗人参の純正品ではないのですが、
高麗紅參茶(こうらいこうじんちゃ)という
粉末の高麗人参エキス配合の加工品を試飲させていただき、
味をみたところ、
自分はそれほど問題なく感じました。
隣で一緒に飲んでいたおばちゃんはやや眉をしかめていたので、
味の感じ方にも個人差がある癖のある品のようです。

 

なので、今回は買い求める前提で来ていたので、
どのくらいのペースで飲むモノなのか?
飲み方は個人でできるものなのか?
ということを訊いたうえで、
自分の予算は伏せたままお値段を訊いたところ、
ちょうど3000円とのことでした。

 

うーん、エスパーかw単なる偶然でしょうけれど。

 

飲むペースは夜や朝に1日1包が基本。
飲み過ぎてもよくない。
(カカオ多めチョコも食べすぎると問題がありますし)
飲み方は普通のマグカップや湯飲み一杯分のお湯(200ml~)で
1包を溶かして飲むだけということでした。

 

なので、即決で購入することにしました。
モノは試しです。
今回使ってみて問題があったらやめればいいし、
効果がそれほどと思ったら今回きりにすればいい、
という割り切りでこの品を購入することにしました。
まずはこれを飲み切りまでの心身の調子、
それに疲労を感じやすいかどうかを自分の身で確かめます。

 

購入の際に店員さは色々説明してくださり、
飲んだ直後は人によっては心拍が高まるので激しい運動の前後は飲むのを控える、
人によってはいきなり高い栄養が入ってきて身体が慣れていなくてびっくりして、
節々に違和感を覚えることもあるそう。
特に、血行のよくなかった人はいっときに血行が活性化されて
それまで凝っていた筋肉が刺激されてちょっとした痛みが出るそうです。
しかしそれも肉体の栄養が加増されてでる反応の一環なので、
よほど虚弱な方でなければ時間に任せれば慣れて問題ないそうです。
(虚弱な方はだから一般的な一人分よりも少し減らした
1/2ないし1/3の1回の服用量にして慣らすのが良いそうです)

 

それに血行が良くなるので飲んでしばらくは足の先までぽかぽかになるようです。
そのため、寝る少し前にお湯で溶かして服用すると
冬場の末端冷え性に効果があり、
年中通してエアコンなどで冷える冷え性の方も飲むと良いとも言っていました。
(日常的に飲酒をしていて夜寝ていて用足しが近い方は
どうなるかは自分には分かりません。
個人的には寝る前に本品を飲んだからといって尿意で目が覚めるということは
ほぼなかったですが……)

 

そんな高麗紅參茶、
自分は11月末からこの3月前半まで毎日でもなくゆったりペースで
60包を飲んだのですが、その感想を言うと、

 

まず試飲した帰り道、確かに足の先まで熱くなりました。
血行は本当によくなるようです。

 

加えて、その日の夜と翌日の仕事で書きモノをしていて、
背中肩甲骨まわりの筋肉が妙に痛みました。
けれどそれも一時で、次に飲んだ時にはそんな症状は出ませんでしたし、
この4か月、肩こりすらありませんでした(毎日数時間書き物しているのに)

 

まあ、ストレッチはしているので、100%この品のおかげとは一概には言いません。

 

それから、寝る前に飲んだ日は足先が冷えるということは……
あれ?今年は全然気にならなかったですが、暖冬のせいか、それとも……?

 

変化はあるのかもしれませんが、
この高麗人参のおかげと言い切っていのかどうか?ははっきりしません。
一概な話ではなく、色々な他の要素も絡んで、これも加わってこの結果とも言えそうですが。

 

疲労に関しては……割と問題ない期間でした。
むしろ外出や家事、仕事量を考えるとこれだけやってたら以前はぐろっきーだったような……
とも感じてはいます。
……うーん、地味に肉体の栄養はあがっているのか?

 

そんなこの品を使いきった自分としての感想は、
付き合い方としては、健康のための薬ではなく、
サプリメントと近い、健康を補助するひとつの品である、という見方が正しそうです。
変化はあるにはありますが、人によっては肉体的な違和感と味の受付なさで
あまり友好的にはできない品。
でも取り入れられるなら(あと経済的な点でも問題ないなら)
効果はあるといえそうな品、といったところかもしれません。

 

否定しようと思えばそういう人にはいくらでもできるし、
肯定的な人には無理しても良い風に解釈できる。

 

自分としては割とポジティブな影響を心身に感じて使える感があったので、
本来60包で60日、2か月で使いきるところを4か月ももたせたので、
試しにもう60包分を試してみるのもありかと思っています。

 

そんな感想なので、
あくまで個人の肉体、体質での感想であり、
すべての人に向けて良い効果があるとは言い切れませんし、
そんな自分の使用感なのでまだ様子見の品であり、
自分の身体で実験して効果を試してるような感じです。
それにこのくらいの値段を払うので、
だからこそ『ちょっとした贅沢』なのかもしれませんね。

 

この記事を読んで高麗人参に興味をもった方がいたら、
あくまで自身の身体と相談して
続けたりやめたりを考えてくださいね。
良薬口に苦しですが、
合わないモノを無理して摂取しても心の毒、
ストレスにもなるとも思いますし、
前述のように栄養価の高い品であるだけに
人によってはその時の体質には合わないこともあるとも思いますので。

 

人を選ぶ品に高いお金を払うという意味でも、
自分の身体で効果を試すチャレンジャブルな品という意味でも、
『ちょっとした贅沢』のお話でした。

 

ではでは~。

 

 

 

「椿の気づきと変化の始まり。『四月は君の嘘』第14話感想・改稿」

 

アニメ『四月は君の嘘』第14話の感想、改稿文になります。
おつきあいくださると幸いです。

 

あまりしてこなかった切り出しかたなのですが、
この第14話を簡潔にまとめると、
ガラコンにこなかったかをりの事情と、
音楽と向き合うことを再び始めた公生のこれからについての向き合い、
そして椿の自分の気持ちについての向き合いが始まったことが
印象深い回だったと、本話はいえると思います。
今回はその様子を追っていきましょう。

 

冒頭でかをりがガラコンにこなった理由を知り、
病院へ急行する公生。
知らせに来た椿をおっぽって全力ダッシュでかをりのもとへ向かう公生に、
のこされた椿の心境はいかほどだったか。
かをりは渡に紹介して彼を好きなのにここまでの反応をみせる公生に、
共演をした相手とはいえずいぶんな熱量で、
あの大人しくて目が輝いていなかった公生の変化にも
椿は複雑な心境だったことでしょう。
これをどうとらえるべきなのか……、
肯定的にとって喜ぶところなのか、
それとも椿にとっては実は不本意なのか……。
自分と当たり前に一緒にいる弟みたいな男の子……
だったはずの公生が。
 

かをりの入院は彼女の言葉では問題はなさそうで、
心配してお見舞いの品として大量の本を持ってきた渡ですが、
二学期には登校してくるからこんなには必要なさそうではあります。

 

ところが、公生や渡たちが帰ったあとでその本の山をみるかをりの口からは、

 

「こんなに読む時間ないよ……」

 

この時、渡の持ってきた本のなかの一冊の、
貸出カードに公生の名前を発見したかをちゃん。
これは読んでみたい感じですかね。

 

この書籍、『いちご同盟』は実際にある作品のようです。
Wikiによると

 

いちご同盟』(いちごどうめい)は
三田誠広の1990年初版の青春長編小説。
1997年に映画化された。
また、1999年にNHK教育テレビにおいて40周年記念番組としてドラマ化された

 

だそうです。
自分も君嘘で知って読んでみたのですが、
主人公がピアノを弾く人間で進路などで悩んでいて、
ヒロインがかをりとリンクする所があって、
この作品のラストで入院している子はどうなるのかというと……。

 

四月は君の嘘の結末はそれに沿う形になるのか?
それとも近づけながらも別物にするのか?
それも来月の月刊マガジンの最終話に注目したいですね。
(2015年当時のこと)

 

そして点滴の再開……かをりの病状は深刻な気配が……。
渡や公生たちとは割とこれまで通り、
元気で明るく話していたかをちゃんですが、
でも……ですよ、
気付かれた方も多いと思うのですが、
この話数の病室でのかをりは、色調が少し色褪せているのです……。
髪の色も、肌の色もやや薄くなっている。
しかもそれはかをりだけだったりします。

 

これはなんですか!?バッドフラグのスメル!
勘弁してください!もー!
本当、かをちゃんはどうなるのか……はらはらです。
 

そして新学期が始まってもかをりは登校せず、
(ここがなんの、誰も言及せずしれっと新学期の登校風景が描かれているのですが、
かをちゃんのいないことをさも当然のように世界は進んでいるようで、
残酷な展開の気配を感じたりもします)
公生は先生に進路についての話をされます。

 

公生の進路。
自分のこれからについての自問がされます。
くわえて柏木さんとのお弁当タイムに斉藤先輩からのメールを受けて喜ぶ椿に、
椿は誰が好きなのか?
という問いかけが柏木さんからなされます。

 

斉藤先輩は憧れの先輩で、
嫌いじゃないから別れていない、という椿。
柏木さんはそんな椿の本心は誰にあるのかを椿に諭そうとします。
いい加減な、そして何かの代償として自分の気持ちとは裏腹な関係をしていたら、
傷つく人が出る。
しかし椿にはどうにも自覚がない。
柏木さんはそれを渡にも相談しますが、
彼は放っておいて、傷ついてボロボロになってでも自分で気づくしかないという。
このあたりはいくたの女の子つきあいを経て鍛えられた渡のメンタルが窺えます。

 

本エピソードはかをりと公生のやり取りから少し離れ、
公生と椿にややフォーカスを強めて彼らの今後に向けてが描かれている気配です。

 

幼い頃、
椿は公生と遊びたいが、公生は音楽にかかりきりで家に誘いにいっても断られ、
学校にもコンクールのための練習で来ない日があり一緒にいられない。
公生と距離をつくる音楽を、椿は本心では嫌います。

 

斉藤先輩との時間でまたしても公生の話(彼氏の前で他の男子の話)
をしてしまいやらかした椿は
帰り道で柏木さんに電話で相談しますが、
椿はここで『自分は誰が好きか?』ということを遅まきながら自問し始めます。

 

一度は椿に反感を持たれた柏木さんの工夫した違うアプローチですね。
別に斉藤先輩との仲を引き裂きたいわけではなく、
ベストの形に誘導して椿には本心から笑って欲しい。
そんな柏木さんの椿への友情を感じます。

 

そんな柏木さんの誘導(嘘)によって公生は椿のもとへ駆けつけます。
自分を心配して走り回ってきたという公生に、
自分が色々考えるこんでいたことから安心を得て二人は夜の浜辺を散歩する。
月の光のもとでの幼馴染の二人の時間。

 

月夜の砂浜をドビュッシーの『月の光』を口ずさんで歩く二人は
どんだけきらきらした青春ですか君たち、
という感じです(笑
でもこのシーンは好きです。
これまでは月は母=亡き人の気配でしたが、
ここでの月は『月が綺麗ですね』『I LOVE YOU』
のニュアンスだと思えるので……、

 

でも個人的な解釈ですが、
愛の確認が月が綺麗だというのは、
ある意味、死をあなたとなら共有したいくらいに好きです、
という意味合いだとも思えて、
どちらにせよ別れの気配をどこかに含んでいる――
好きも愛も肉体的、物理的距離のまえでは永遠ではなく、別れは必然――
のが『月』なのだといえるかもしれません。

 

そう考えると本作の序盤が少年公生が演奏する
『ピアノ・ソナタ第14番「月光」』だったことからも、
この作品は『別れ』の気配を含ませた内容だということなのでしょうか……。
 

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  ©新川直司講談社/「四月は君の嘘」製作委員会

 

 

過去の椿と公生の足跡と、今の二人の足跡の差は、
これが重なることで二人の積み重ねてきた時間と、
そして今の二人の差が描かれているように感じます。

 

前話で公生が変わったことに対して、
自分に違和感を覚えた椿はここでも互いの違いがでてきたことを知るわけですね。

 

公生は先に向かって進み始めている。
けれど椿は?

 

その差、そして二人の隔たりを作るのは
今も昔も椿にとっては音楽ですね。
音楽が公生との距離を生じさせる。
それに対して椿は耳をふさぎ、自分の本心から目をそらし、
自分の気持ちに気づこうとしないけれど、
公生が進路について決めたことを聞かされて、
彼が明確に離れていくことを知ったとき、
一緒にいられなくなると知らされたとき、
どうしようもなくそのことが嫌だったのでしょう。
離れてしまう事実が悲しくて涙がしらずあふれてくるくらいに。

 

公生に見せようと一生懸命ごしごし作った虹色に輝く泥団子。
自分の分だけではなく、
公生のぶんも一緒に。
それは音楽のせいで今は会えなくても、
公生が喜んで笑う顔が見たかったからでしょう。
なんですかそれは。
そんなのはその相手のことが好き以外の何の理由があるのでしょうか、と。

 

泣き出して全力で走って公生から逃げていく椿ですが、
その涙のわけ、
これまでずっと見たかった公生の笑顔。
元気になって欲しかったわけ。
それらの理由を考えて、ようやく自分の気持ちに気づく椿でした。

 

「私、バカだなあ……」

 

がガサツ幼馴染ヒロインの変化を物語ります。
ここから椿はどうなっていくのか……。
公生、かをりだけではなく椿もまた本作の後半戦の見どころとなりそうです。

 

そうみると君嘘は公生だけではなく、
かをりや椿、渡などそれぞれ皆の青春を描いている作品でもあると
改めて思えますね。

 

本話の感想改稿の頭で書いたように、
このエピソードは彼ら三人の今後の始まりを示すような内容だったと言えると思います。
椿は今後、公生の隣で笑顔を見られるのか?
公生の進路、ピアノはどうなっていくのか?
そしてかをりの病気の具合はどうなるのか?
それらも気にしながら

 

ではまた君嘘の感想記事で~♪

 

 

 

「読書感想 『スタンフォードの自分を変える教室』 ケリー・マクゴニガル」

 

 著者は米スタンフォード大学で心理学の博士号を取得した健康心理学者。
人々の健康や幸福、成功、人間関係の向上の実践の研究で注目を集め、来日しての講演も。

 

 本著は人々がダイエットなり禁煙なり、
何かの目標に際してそれを妨げる何かへ抵抗する力、自制心、意志力について
意志力をつかさどるとされる前頭前皮質の脳生理学、神経、身体、心理学の観点から解説し、
それらを利用した自制心と意志力と強化エクササイズを紹介。

 

 ストレスがかかると脳内ではより生の充実を欲求する本能が強まり、
ドーパミンが分泌され興奮し理性の自制心が弱まる。
この時、呼吸が短くなっているので
まず呼吸をゆっくりにするだけで欲求を抑えられて自制心が働く、
などメカニズムが分かりやすく語られている。

 

 他にも様々な自制心強化の方法が語られているが、
個人的に興味深かったのは、
人は意識するなと言われたことほど余計に気になり、
結果その欲求を抑えられないことがある、ということとその対策。

 

これもそうだが、自分が欲求が強まっている状態を冷静に見つめる、
などマインドフルネスにも通じる考え方もあったし、
誰かに悪くみられたくない恥の心が自制心を強化する、
という昔の日本人の恥を嫌った精神も自制心の強化には一役買うということが学べた。

 

 あとは、世間のビジネスはスイーツもマックもスマホ
すべて人間のドーパミンを利用してうまく乗せられているのは前々から知っていたが、
本著でさらにそれを再確認することになった。
世間のビジネス形態を変えることはできない。
各々が考え方や行動の対策を学び、採るのが肝要である。
などを考える機会になった。

 

 これをしなければもっと良いのに、
といったやるべきではないことに悩まされている人や、
自分のやること、目標のためのもっと意志力を向上させたい人などは、
読んでみると学べることがある本だと思います。

 


ではまた次の本の感想で。

 

 

 

「つながる母子の想いに涙。『四月は君の嘘』第13話感想・改稿」

 

アニメ『四月は君の嘘』第13話の感想、改稿文になります。
おつきあいくださると幸いです。

 

公生の幼い日の記憶は、
微睡みの中で聴こえる温かな母のピアノ音、
クライスラー「愛の悲しみ」
ラフマニノフ ピアノ編曲版
とともにあるようです。
冒頭で描かれるそんな昔の風景ですが、
母、早希さんと友人である紘子さんも
旦那さんとのもめごとのたびに有馬宅に避難してきて
彼らの日常の一部としてそこにはいて、
そんなあるとき、紘子さんは公生にピアニストの才能を見出して音楽の道に導いた様子も描かれます。

 

余談ですが、ここでの紘子さんセリフ
「謝ったら金輪際おしまいなの」
は意味深です。
最終回までみたあとで考えると、新川先生がもともとある本作の結末に関して、
でもこのキャラが愛おしいから変えます、編集部さますみません!
となったとしたら、それは創作人生に今後よろしくない十字架を背負うことになるような、
そんな新川先生の葛藤が後からみるとこのあたりにうかがえます。
謝ったら、というよりも、本来の形を誤ったら、
なのかもしれません。深読みかもしれませんが。
あとから思うと、原作漫画のこのシーンの背景画、
『道を極める』とは、
自分の新川先生の漫画道を極めることへの再確認の意味もあった台詞だったのかもしれません。
アニメのみで原作漫画を読んでいない方は、
興味があったら是非手に取ってみてください。

 

本話では公生が、本来かをりのためのガラコンの出番に一人舞台に向かいます。
今の公生は、
かをり不在のため彼女とともにガラコンで演奏する目的や、
かをりが「愛の悲しみ」を課題としてくれたことよりも、
三池くんに自分のパートナーであるかをりを悪く言われたことへの怒りに燃えているようです。
 

宮園かをりはすごい。
そう証明するために一人で、しかも本来ヴァイオリンのガラコンなのに
伴奏者のみで演奏を始める公生。

 

公生にとってかをりはそれだけの存在であり、
常識的にまわりがへんな目で見たとしても
構わずその自己主張をすることを選ぶ。

 

「僕を見ろ!」
つまり、今の僕を生み出した存在である宮園かをりのすごさを見ろ!

 

と公生が弾き始めた曲は

 

クライスラー「愛の悲しみ」ラフマニノフピアノ編曲版。

 

伴奏曲ですらなく、
ピアニストの己の領分の演奏。 

 

かをりの価値の証明のために。
けれど弾いてわずかで聴衆の反応は分かれる。
技巧、迫力。
だが聴きに来ていた絵見や落合先生にはいまいち不評のよう。
先生には「耳障りだわ」とさえ思われた。

 

公生の母、有馬早希さんが好きだったこの曲を、
なのに公生は大きな価値をおく宮園かをりをバカにされたことで
怒りにまかせて乱暴に演奏していたのだ。

 

ここで公生は自身の音が聴こえなくなることで
ピアノの鍵盤を叩く力のつよさに気づきます。

 

ところで、ここで音が聴こえなくなるのはどうしてか?
前話までの感想で改めて、公生はこれまでは
母に辛い目にあわされてまで、
周囲に嫌なことを言われる彼女に従った譜面通りの演奏をすることを嫌だと無意識に感じ、
母のピアノと演奏を拒絶したから、
母とそのピアノと向き合うことから逃げたことから、
自らその『精神的に音を消去する』という症状を負っていたと解釈しました。

 

それがここで聴こえなくなるわけは?
……と考えたとき、思い浮かぶのはまず、

 

無意識のなかに母の音があることを肯定し、
譜面通りの音は肯定しきれないまでも、
原初体験の母の「愛の悲しみ」の音は聴こえることを受けいれた公生だったが、
自身の演奏の『原初体験の母の「愛の悲しみ」の音』以外は
譜面通りの音と同じ扱いだった。
だから、原初体験の音を弾いていないことを耳が認識したとき、
その音を拒絶して聴こえないモードに入った、という考え方。

 

もうひとつ考えられるのは、
原初体験の母の「愛の悲しみ」の音を聴こえるようになって、
『自分の音が聴こえる状態』は取り戻したけれど、
集中すると聴こえなくなる状態が癖としてのこってしまっている、という考え方。
聴こえるけれど、集中すると音offモードに入ってしまうのが今の公生、
だとも考えられます。
ただし、それでもプールの水中で取り戻した自身の無意識にある大切な音は同時に再生可能のようです。

 

ここの解釈は難しいですね。
この話数では結果として「愛の悲しみ」から出る公生の母への答えの方に集中してしまいがちで、
その過程の音が聴こえるどうこうは気にしても仕方ないとも言えるのですが……
じゃあ公生が自分で「愛の悲しみ」の弾き方がこれじゃダメだと気付くとしたら、
他にどういう展開があったのか?
そう考えると、この時の荒々しい「愛の悲しみ」の音を自分で聴いた(聴こえていた)公生が、
違和感を自己に伝えるために無意識でoffモードを発動させて、
自ら今の粗雑な演奏に気づくように導いたのでは?とも考えられます。
うーん、なんでしょうねこのシーンは……アニメ放送当時からだいぶ経ちますが、
今考えてもちょっと自分的に不可解です。

これを読まれた方で、上記への肯定意見、
もしくはもっと良い解釈があったらコメントしていただけると嬉しいです。

 


自分の演奏と母の「愛の悲しみ」

 

自分の演奏が力み過ぎで
これでは母の好きだった「愛の悲しみ」ではないと感じた公生は、
意識のなか、記憶のなかにある母の演奏が子守歌がわりになっていた
「愛の悲しみ」の音を再現しようと弾いてみます。
そして変わる公生のピアノの音。

 

音が聴こえないことでうまく弾けなかったのが、
音が聴こえないことで別物の音を奏でることができる、
というのは今思うと斬新です。
ハンデを逆手にとってより効果を出す、
というのは過去の何かの作品でもあったような気が朧気にはしますが、
この年代になってやってくる作家さんというのも珍しく、
かえって新鮮という言い方もできるのでは、と改めて思います。

 

前話の感想で
母、早希さんは公生のことをどう思っていたのか?
ということについて触れましたが、
それは病の身でさきに逝ってしまう親として
公生が心配だったから、
彼女なりに出来ることを必死にやっていたということだったんですね。

 

ここについて改めて考えると、
現実的に冷静にみると人間ピアノ以外にも
いくらでも食っていく方法は探せるものですが……
この辺はやや作品の無理のある点かもしれません。
ピアニストの物語として、ピアノに固執した人々を描かざるをえない故の
どうしてもの不自然感。
ただ
親によっては自分の考え方に子供を当てはめて、その通りじゃなきゃ嫌という
そういう人間もいるといえばいる……、
それとも、早希さんにとって公生とピアノで過ごした時間はとても大切であり、
自分とともにあった記憶として公生にそれを続けて欲しかったのか……
それも一種の愛に感じます。早希さん……(泣

 

うーん。この話数は公生と母親の想いに
自分も10年規模くらいぶりにアニメを見て泣いたくらいだったので、
当時からあまりしっかり考えて見ていなかったようで……
けれど改めてみてもさまざまなキャラの想いが短い中に表現されていて驚きます。

 

当時のアニメ放送後に設定考察記事として
自分は創作的な意味合いを中心に考えていましたが、
今はキャラの心理やどう考えていたかなどについて興味深く考えて触れられます。
 

うーん、今見ても

 

「私の宝物は……」

 

のセリフに感じる子を残して逝く親の無念の切なさに涙が出ます。

 

そんな早希さんは公生に何も残してやれない酷い母親だと涙していましたが、
でも公生が今、母の「愛の悲しみ」を弾いて
自分のなかに母の存在を感じるように、
そして母がいてくれて、ピアノを教えてくれたからこそ
宮園かをりという、
紘子さんがいうところの公生にとってかけがえのない誰かと出逢えたわけで……
だから出会えた感動も喜びも、それは早希さんが公生にのこしたものなんですよと……
そう考えるとこのシーンがさらに泣けます。
公生がそれに気づいて、母に教えられたピアノを今弾いていることに対して
『幸せだよ』
と見出すのがまた……。

 

これによって公生は母=ピアノを肯定した。
母とピアノと向きうことができて、これらへのネガティブな感情を振り切ることが出来た。
母の影も、聴こえなくなるという症状も、
暴力的な仕打ちをされたことで抱いていた母への怖れや反感に端を発し、
母とピアノから逃げるために自らの無意識で招いた病だった。
これらはすべて、母と正面から向き合うことをしなかった公生の弱さが招いたことだった。

 

でもいま、公生のなかで母の認識が変わった。
紘子さんの回想のなかで早希さんの本音が描かれますが、
公生には正確にはこの時点でそこまで詳しくは分からなかったかもしれません。
それでも公生にとってピアノを通して時間を共有した母は、
自分を嫌ってなどいなかった、と公生は理解したはず。
もしかしたら、

 

「「愛の喜び」と「愛の悲しみ」があるのに、
どうしていつも「愛の悲しみ」を弾くの?」

 

という公生の問いに対しての母の言葉に、
早希さんはこれから自分がいなくなる悲しいことになっても大丈夫なように、
この曲を(母の教えるピアノや演奏)を公生におくっていた、
と公生は解釈したのかもしれません。
自分を嫌っていたのではなく、自分の先行きのために
あそこまで苛烈に接していた。
それも分かったうえで、今こうして母の示してくれたピアノのおかげで自分は
さまざまな出会いと感動、喜びに出逢えた。
だからもう、母への否定はなく、感謝しているし、
母=ピアノとともにありたい、歩んで行こうという気持ちにも公生はなったのかもしれません。

 

公生は、そんな母への感謝と愛という
自身の母への本当の想いにたどり着いたともいえて、
だからこそ母の拒絶から形作られた影に悩まされていたことから今、確かに開放されたのだと思います。

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  ©新川直司講談社/「四月は君の嘘」製作委員会

 


 

そしてもういない母に、いまようやく正しく
「さよなら」を告げるのでした。

 

この演奏を聴いている椿がね、涙ぐんでいます。
あの勝気でガサツな椿が。
これは公生の変化、成長に感動したのでしょうかね。
お母さんが亡くなっても泣きもしなかった公生が、
ここまでお母さんを思って演奏した。
母と正しく向き合える人間になった。
公生への母性ある椿としては、思わず涙ぐむ案件だったのかもしれません。
だからこそ、演奏のあとで渡や紘子さんとあわせて公生にあったとき、
普段通りに会話している自分に『残念で泣きそう』になったとのだと思います。

 

公生は先に進んだのに、自分はこれまで通りに公生と話してしまえる。
それはこれまで通りの関係の安心感とともに、
私は子供のままだ、というおいていかれた感でもあるのかもしれません。

 

自分より大人になった公生と、少し話し難いくらいの方が
自分にも成長した公生に応じて変化が生じたのでは?
それを自分はこれまで通りというのは、自分だけ昔からのままに留まっていないか?

 

公生だけ成長しておいていかれた感からくる違和感ではなく、
公生は成長したのに自分は何も変わっていない、なのになんで普通に話せてるの?
ひけめを感じて少し普通に話せないくらいの方が、私も何か変わったんじゃない?
公生が変わっても私は昔のまま普通に話せる人間なの?
それはそれで椿は子供のままで止まっている。

 

ということをなんとなく椿は感じて、
むしろ話し難いほうが良かったのでは?という意味で残念な涙と
そう思ったのかもしれません。
ここも難しい表現でしたが、
これから椿にとっての変化、成長の始まりとなるシーンだったと改めて考えます。


演奏後。

 

母の存在を自分のうちに感じて、
そこから母と母の与えてくれたピアノへの感謝、
母への愛を演奏にのせた公生は、それが母に届いたかな?
と切なくなり泣きます。
それを紘子さんは抱きしめて肯定します。

 

同じ公生が泣いていたとき、
母が亡くなった直後の演奏で音が聴こえなくて震えて泣いていた公生を抱いた時とは違う、
あの時は公生への謝罪と懺悔と
自身がピアノを薦めた結果こうなってしまったという後悔がありましたが、
今、公生に手を伸ばして涙する彼を抱きしめる紘子さんの想いは違います。
母への思いで苦しんだ公生が答えを見つけた、その苦闘を労わるように、
彼が母へのわだかまりから脱け出したことを祝福するように。

 

今回の公生の演奏にライバルたる者の開眼を見た絵見は、
邪悪に喜び
 

「強敵をぶちのめす。これぞ至上の悦楽……!」

 

とかなり弩Sなことを申しております。
さすがえみりん、一味違うのね……!

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  ©新川直司講談社/「四月は君の嘘」製作委員会

 

 

同じく公生の演奏に『撃ち抜かれた』
三池くんは演奏への考え方や姿勢がかわり、
彼は今後有馬公生信望者になってゆくという……。

 

ガラコンから翌日、
紘子さんは小春ちゃんをつれて落合先生とお茶をして、
有馬公生と早希についてお話しをしています。

 

母を失ったことは悲しいことだったけれど、
演奏家としては必要な事だったかもしれない。
 

それは残酷なこと。
愛する者の喪失さえ己の業に活かして高みに上る。
表現者。アーティスト。
こういう人種にはそれが悲しい出来事であっても
感情を大きくらすことになる経験があった方が、
そこから出る思いから味や深みが増す……
それは業の深い道であり、
だから先生は「鬼の通る道」
と表現します。

 

鬼……鬼籍。
紘子さんは言う。
悲しみが彼を成長させるのならば、それが公生に必要ならば、
彼は失って進むのかもしれない、と。

 

その台詞にに重なるかをりの入院姿。

 

これは……かをちゃん、やっぱりそうなのか?
そうなのか。
どうなのか。

 

母と公生の想いがつながる感涙の余韻を残しつつ、
ラストはさらに不穏なフラグが積み上げられて、
心配と不安で別の意味で泣きだしそうです。

 

創作的に見ると、
積み上げたフラグの結果に対しての公生の乗り越え、
アンサーが物語の結末にも感じますが、
けれどこの悲しみの気配のフラグをぶっとばして、
世界をカラフルに彩付けるような幸せなラストも期待している自分が居て。
うーん……一体どうなることやら。

 

この回では本当に久しぶりに映像作品で落涙した経験だけでも、
四月は君の嘘』を読み始めて、
アニメを視始めて、視ていてよかったと思えるのですが……。
けれど最終回がどういうモノになるかわからなくて、
不安で、また楽しみで、そしてまた怖くて、期待が高まってしまいます。

 

ただエンディングテーマをよく聴くと、

 

「残されたモノ何度も確かめるよ」

 

とあって、
これ誰の事ぉぉぉおおおおおおっおおおおいいいいっ!!!
と取り乱してしまいます。
そんなアニメ四月は君の嘘

 

ではまた次の感想で。

 

 

 

「贈り物を考えなしに選ぶことを女性は……。今週のお題「ホワイトデー」」

今週のお題「ホワイトデー」

 

今週のお題より「ホワイトデー」で記事を書かせていただきます。

 

ホワイトデーといえば言わずもがな、
2月14日のヴァレンタインデーのお返しの日です。
基本的に、ヴァレンタインデーに異性(場合によっては同性も)に
いただいたチョコレートに対してのお返しの贈り物をおくることになります。

 

ここで選ぶ品というのは、
ちょっと……考えた方がいいと自分は思っています。
それはホワイトデーに限った話でもないと思うのですが、
女性(特に女性の多くの方々は)は贈られた品の『意味』を考えたりします。
(頓着しないという女性もいてもいいとも思いますが、一般論として)

 

分かりやすい例でいうと、
花束を贈るにしても、その花の花言葉を考えたり、調べたりして、
同じ花の贈り物でも
こちらに好意的か、それともまったく真逆の意味があるのか、
それとも相手がまったく考えなしで適当に、贈り物をおくるポーズをすれば喜ぶでしょ~、
と深く考えないタイプか、など色々想像する傾向にあるようです。
前述の例でいうと、
考えなしで贈られたと解釈すると、
「私ってその程度の労力しか割かれないくらいあなたにとって軽い存在なんだ、ふ~ん」
となって場合によって一気に相手への好意が覚めて、
それからフェイドアウトということも場合によってあるようです。

 

女性は男よりもそういう機微が圧倒的に鋭く、分かり、気にするようです。
感受性、読解力の直感的能力が圧倒的に男よりも格上です。
肉体的には劣りますが、そのパラメーターが圧倒的強者なのが女性です。
(個人差はあるとは思いますが)

 

なので、考えなしで軽い安易な品、
意図が浅い品、
自分への好意が読み取れない品とみなされる品、
などはまあ、女性によってはシビアな判定がされる場合を覚悟した方がいいと思われます。

 

だったら具体的に何を贈るか品の例を出してよ!
と言われそうですが、
それがそもそも安易だといえます、シビアに言うと。
まったくそういうのに経験も免疫もない男子が、
自分のために時間を割いて必死に考えてくれた、
私をそこまで考えてくれた、という価値の大きさ、恋愛感情の大きさを注ぐことがまず肝心なわけで。
恋愛って相手を思っても悲しいけれど届かないケースもあって、
それでも好意があるからどうしても考えてしまい、
その結果としてうまくいく場合もあるし、いかない場合もある、というものですから、
その面倒を避けて手軽に一人の女性の心を掴もうというのは……
失礼千万。容赦ないようですが。

 

本気の本気で好きならそれに見合う誠意で贈り物くらい考えろ、と。

 

(そこまでされて重い、という女性は
そもそもつりあいのいいお相手としてあまりどうなのかと思うので、
外見がよくても他に行った方が幸せになれるケースもありますよ)

 

いきなり贈り物上手じゃなくてもいいと思います。
場合によってはその時期のお相手は別れとなる結果になろうとも、
その方と過ごしてその人を想って頭を悩ませた時間と経験は
必ずあとあとで出会う誰かに活きてきます。
なので、最初から100%うまくいくことを考えず、
胸をかりるつもりで、
そして相手への全力の想いで贈り物について考えまくってみるのが良いと思います。

 

そもそも、女性の方だってヴァレンタインデーというイベントの体裁はあっても、
自分から告白する形になることについて
好きなあなたのためにどのくらい時間をつかって色々考えただろうかと……
それを思ったら、女性がくれたチョコレートの思いのたけが分かり、
それ相応の対応をしなくては……ということだと思います。

 

恋愛に限らず、楽して手に入るモノは自分にとってあまり成長にならないし、
苦労して手にはいり、届くからこそ喜びも一層増すというものだと思います。

 

もうホワイトデーは過ぎましたが、
誕生日や何かの記念日、
お祝いやお礼などの際の贈り物には、
相手がどう思うか、どう受け取ってくれるかを想像してみると
二人の何かに繋がるかもしれません。

 

どこかの誰かに少しでもの幸運を祈って。

 

ではでは~。

 

 

 

「コードギアス 亡国のアキト 第1章「翼竜は舞い降りた」鑑賞感想」


コードギアスシリーズの映画などの鑑賞、
劇場版三部作に続いての
亡国のアキト』、第1章の鑑賞、感想になります。

 

本作はコードギアス本編ではあまり描かれなかった
ヨーロッパ方面での人々とブリタニアとの戦争が描かれているようです。
時期的にはTV版の1期と2期の間、
ルルーシュがスザクに正体がばれて決裂したあとから、
記憶を書き換えられて学園で監視されて日常をおくる、
その中継ぎのような時期。

 

序盤は、E.U(ユーロピア共和国連合)の軍による
ユーロ・ブリタニア軍からのペテルブルク(ロシア西部の都市)奪還作戦が描かれます。

 

最初のエピソードということもあり、
本作の主要キャラたちが描かれ、
彼らの物語ですよと提示されているようです。
当然、コードギアスなのでメイトメアフレームによる戦闘、
あとはギアスの存在の気配も。

 

ストーリーを追っていくと、
ブリタニア側はユーロ・ブリタニアの四大騎士団のひとつの聖ラファエル騎士団で、
劣勢のE.U側は脱出路を確保するために新型KMFアレクサンダによる特殊部隊
「wZERO」を投入。

 

しかしこの部隊はブリタニアによって占領された日本人、通称『イレブン』の
ヨーロッパ在住民で構成され、彼らは捨て駒として扱われていた。
KMFに自爆システムを組み込み、
日本人だから神風、特攻をさせろと
敵機を巻き込んで数を減らしていくwZERO隊のなかで、
一機のみ奮戦するのが本作の主人公、日向アキト。

 

彼の窮地に打開策となったのは、
wZEROの司令官に異議を唱えて制圧した女性参謀、レイラ・マルカル。
若く美しい女性ですが知的職務にかかわらず合気道の有段者であり、
白兵戦で非人道的な司令官、アノウを取り押さえアキトの生還を指揮した。

 

これによりwZERO部隊はブリタニア側に
ハンニバルの亡霊』と呼ばれ認知されることに。

 

wZERO隊でのアキトとレイラ、
ブリタニアの四大騎士団の対立の構図がこの時点ではうかがえます。

 

KMFでの戦闘中のアキトの敵対者への叫びは
呪詛なのか、殺意なのか、
彼の目はギアスをかけられた赤い縁が見えます。
彼は何者かにギアスをかけられそれをスザクのように戦闘中に活かしているのか、
それともギアスの呪いによって戦っているのか?
この辺は現時点ではよく分かりません。

 

レイラは結構複雑な来歴の持ち主で、
やや浮世離れしているところもありますが
思いやりがあり、周囲が日本人をイレブンと蔑み捨て駒とするのをよしとせず、
日本人として接するような女性。
理想や正論がやや強く、軍内の理解者であるスマイラスからも少し窘められている。
けれど養女となった家の人間たちとはやや不仲で、
スザクのように問題を抱えながらも正しさを求めているキャラと現時点はいえるかもしれません。
コードギアスですから先々どうなるかはわからない……)

 

第1章はレイラの護衛役としてのアキトとの交流、
そしてスマイラスを拉致しようとしたE.U在住だった日本人で
今はアンダーグラウンドの少年少女、
佐山リョウ、成瀬ユキヤ、香坂アヤノとの遭遇から、
彼らを犯罪を犯したが身の安全と引き換えにwZERO部隊に引き入れ、
アキトを含む部隊を結成。

 

本章の『翼竜』とは少し公式の情報を見ると
特殊部隊wZEROのKMF戦闘部隊『ワイヴァン隊』のメンバーが結集した
ワイバーン翼竜が舞い降りて一同に会した)
ことを表してことかと思います。
今後この『翼竜』が他の誰かなどを指す場合もあるかもしれませんが。

 

加えてブリタニア側では四大騎士団の一角内で異変が。
聖ミカエル騎士団長のミケーレがいずれ団長に推すつもりだった部下に
ギアスをかけられ自刃。
彼は名前がシン・ヒュウガ・シャイング。
相手に自害を迫るギアスというのも恐ろしいですが、
しかし誰彼構わずかけれる類なのか、どうか?

 

他にもこの時点で色々感じますね。
日本人?ヒュウガというのはアキトの日向との関係は?
ギアスの存在から繋がりは濃厚、
だとしてシン自身の目的は?
日本人だからブリタニア内でスザクのように何らかの意図があるのか?
……など。

 

ラストはアキトがレイラに対して不穏な過去を少しだけ語って次回へ。
まだ出だしでキャラと情報の紹介が済んだ段階ですが、
主人公であるアキトがギアスを行使するわけではなく、
スザクのような戦闘員、兵士としての立ち位置という点で原作とはやや違う雰囲気です。
(そりゃまったく同じにしたら面白くありませんが)

 

ネガティブな単語や印象の多い作品ではあるので、
あまり爽快な作品を好む人には重い作品とも言えるかもしれません。
ただ、コードギアスファンとしては遅ればせながら見ていこうと思える作品でした。

 

本作で物語的以外に気になった点、良かった点をいうと、
レイラ役の坂本真綾さんと、切なげなED曲。
KMFナイトメアフレーム)が手描きではなくフルCGになっていた点ですね。
四肢形態で蜘蛛のようにわさわさ動くのは不気味でもり、同時にCG技術の進歩を感じます。

 

ときに、これまで知りませんでしたが、
KMFのナイトメアは悪夢のナイトメアではなく、
KnightMare⇒騎士の馬
(馬でも雌馬であり、コクピット内を母胎とする、みたいな解釈でしょうか?)
のようです。だいぶ長いあいだ勘違いしていました。
情報って大切(苦笑
それからスザクの登場、加えて「水をくれ」の人……
うーん、何者なんだ。
彼は軍師らしいので、
彼の存在がシンと合わさってヨーロッパ方面の戦線を今後動かしていく中での、
アキトたちの部隊の戦い、
そしてなんらかのギアスの絡みが予想されます。

 

ではまた続きの感想で。

 

 

 

「公生の症状と再生について改めて考える。『四月は君の嘘』第12話感想・改稿」

 

アニメ『四月は君の嘘』の第12話(2クール目)の感想、改稿文になります。
おつきあいくださると幸いです。

 

OPテーマ曲が『光るなら』から『七色シンフォニー』に変わり
2クール目に突入!
 

かをりとのガラコンサートに向けて二人で練習する公生。
時期的に夏休み頃で、補修を受ける椿の不満そうな様子がうかがえます。

 

夏の陽光と風が音楽室にさすなか、公生とかをりは二人の時間を過ごす。
割と順調そうな二人の時間……と思いきや、
公生のどうにも乗り気ではない演奏にかをりの乱暴なダメ出しが炸裂しています。

 

公生はかをりのガラコンのための選曲、
「愛の悲しみ」を何故嫌がるのか。
冒頭、公生宅のピアノ部屋で彼は楽譜棚に違和感を覚えます。
かをりの指定である「愛の悲しみ」の楽譜を確認しようとして、
それが以前さしてあった場所はここだったのか?
と疑問に感じたのです。

 

ふむ、公生以外にピアノ部屋に入った人物で、
作中で描かれているのは
紘子さん、小春ちゃん、あとは川ダイブのときのかをり。
この誰かがたまたま、もしくは任意でその楽譜を触ったのか?
それに関しては、
「楽譜はあんなにも愛にあふれていたのに……」
が物語ります。

 

それはそれとして、かをりは何故この曲を公生とともに弾こうと思ったのか?
公生もそこは気になって(というかこの選曲を避けるための言及として)
かをりに問いますが、
色々言いあいながらもかをりの押切に結局は従うことに。
この時のかをちゃんの顔は作中でもトップクラスの変顔かもです。

 

この辺のかをりの意図はなんでしょうか?

 

公生の母が好きだった曲であるということは、
彼の口からかをりに伝えられたシーンはありません。
けれどコンクール前の吐いたあとの会話で
公生が母にネガティブな印象を持っていることをかをりは知っています。

 

これは推測ですが、
有馬宅のピアノ部屋を訪れた際にかをりは棚で特に使い込まれた、
かつ古そうな「愛の悲しみ」の楽譜に目がいった。
その楽譜に目を通して、奥付の発行年から
公生が生まれる前の書籍であること、
つまりこの家でピアノを弾いていたもう一人、
公生の母の所有物であることをかをりは察した。

 

加えて、それが古いだけではなくかなり使い込まれて痛んでいたとなると、
よほどこの曲を公生の母、早希さんが愛して、
繰り返し弾いていたことをかをりが想像したのではないか、と考えられます。

 

それは同時に、公生が幼いころからその部屋で早希さんがこの曲を弾くのを
何度も聴いていたということにもなる。
つまり、この「愛の悲しみ」は公生にとって母の記憶とつながっている、
とかをりにも結び付けられる。

 

これらの考え方をかをちゃんが理論的に考えたか、
それとも直観的に理解していたかは詳しくは分かりません。
ただ、公園で公生の昔話を聞いているときの顔が
やや目が大きくなって何かに気づいたような雰囲気もあるのが、
かをりの察する力を裏付けていると言えるかもしれません。

 

ところで、かをりは
「君がこの曲を嫌がるのなんでかな?」
と疑問そうにしていましたが、これはもしかしたらダウトかもしれません。
公生と早希さんの繋がりを「愛の悲しみ」に感じてチョイスしたならば、
公生が母の影で操り人形であると悩んでいたことや、
母の夢を否定した罰として音が聴こえないと考えている公生が、
早希さんに対してネガティブな感情を持っているのはわりと自然なことで、
だから母がよく弾いていた曲は彼女とその嫌な印象を思いおこしてしまい、
公生はこの曲を嫌がる。
これはかをりほどの理解力、感性の人間なら想像がつくことのように思えます。

 

つまり、嫌がると分かっていたけれど、
あえて公生にとって母の記憶とつながるこの曲をかをりは選んだ、とも考えられるのではないかと。
母さんの影にいる、とうつむいていた公生に対してのそのまま課題なのでしょうかね。かをりからの。
弾けば何かが変わる。そう信じて。

 

もしくは、本当は公生が母のことを嫌いではないのでは?
とかをりは解釈していたとも考えられます。
公生のピアノ部屋を見て後日、コンクールへの練習中の夜の学校で
「愛しいけれど触れられない」
とかをりが公生のピアノへの感情を解釈していましたが、
それは

 

ピアノ=母

 

な公生にとっては母も同様に「愛しいけれど触れられない」位置づけだから……
と考えることもできるかもしれません。
そうだとすると、嫌な記憶もあるけれど、
公生に母への大切な思いを取り戻して欲しいという気持ちもあったとも改めて思います。

 


OPテーマについて少し言及します。

 

詞が物語後半戦をよく表わしているような雰囲気があります。
そして天に昇ったシャボン玉がはじけて混ざるのは、
どういう意味なのか。

 

メタファーとしては場合によってはかをりへの公生の想い、
かをりとの思い出が形は消えるけれど確かにあったモノとして
公生のなかでのこっていく、みたいな表現にも感じます。

 

か、かをちゃん、一体どうなるの……ッ!

 

OPといえば、タイトル部分に英小題があるのですよね。

 

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 ©新川直司講談社/「四月は君の嘘」製作委員会

 

原作コミックスにも表紙にちゃんと書いてありましたが、
ちょっと気づいていなかったです。
また言及されているサイトも見かけなかったので(2015年当時)
この機会にその英文を載せておきます。
(※この記事は再稿文なため
2015年当時にもすでに当ブログの前身で記載していました)

   ⇓   ⇓   ⇓

I met the girl under full-bloomed cherry blossoms
and my fate has begun to change

 


『私は満開の桜の木の下で女の子に会いました、
そして、私の運命は変わり始めました』

 

という内容なんですね。
どういう意味かはここまで四月は君の嘘を見てきた人たちには
実感できると思います。
ではこの変わった運命は、公生をこれからどんな姿に変えるのか?

 

そのステップとして今、公生は「愛の悲しみ」と向き合いますが、
彼の心にあるのは母への後悔。
一人で部屋で弾いていても母のことを思いだし、
気分転換にと紘子さんと小春ちゃんと出かけた夏祭りでの会話でも
あんなひどい言葉を投げつけた自分を母は憎んでいるのではないか?
自分はピアノを弾いていいのか?
と「愛の悲しみ」を演奏することで演奏自体にさえ公生は悩みをもらします。

 

酷いことをされた怒りとはいえ、
あんな悪逆を口にして、
そのまま永遠の別れとなってしまった実の息子を母はどう思っていたのか?
公生はもう会えない母への罪の意識でどうするべきか悩みます。

 

母の言いなりで自己主張しない子供だった公生は
怒りの形だったとはいえ自己主張をして、そのことで悔いたけれど、
自己主張して悔いること自体はもう
『君のために弾こう』という目的意志のために問題ではなくなっています。
でも、母の気持ちも知らずに酷いことを言ってしまったことに対して、
もう取り返しようもないからこそ拭い去れない罪悪感と後悔で公生は思い悩む。
ピアノは母の記憶そのものだから、
ピアノを弾くことで母との良いモノも悪いモノも含めた思い出と向き合うことは避けられない。
公生はピアノを弾くうえで、音が聴こえない症状とともに、
母への後悔に対しても決着をつけなければ前に進めないようです。

 

では公生の母、早希さんは公生に対してどう思っていたのか?
早希さんは何故、あそこまで苛烈に公生に指導したのか?
公生の気持ちをまったくわからないということもないだろうに。
母が何を思っていたのか?公生が疑惑をもつように彼を嫌っていたのか?
母の思い通りに弾けない子供を憎んでいたのか?
けれど、病気で先が長くないとしたら、その母が一人息子に思う事……、
それは次話、ガラコンでの演奏で改めて。

 

母の意図が分かれば、
そうだったのかと分かれば、
少しはマシかもしれないのか?

 

公生はひとつの可能性として、
母が自分を憎んでいたからでは?
と考えて悩んでしまう。
それだけの肉体的、精神的な苦痛を与えられた幼少期だった。
あそこまでする人間の気持ちは、こちらを憎んでいたからではないか?
と考えるのも無理からぬことです。

 

紘子さんに吐露したその言葉に、彼女は同じ母親として
子供を憎む親なんていない、
という答えを与え、公生を導きます。

 

そして 

 

「だったら弾こうよ。
迷いがあるなら、びしっとピアノ弾いて、
早希の声を聞こうよ」

 

と励まします。

 

「愛の悲しみ」を弾くことで何かが変わるかもしれない。
目を背けていた母のことを、
この曲を通して向き合うことで見えること、感じることがあるかもしれない。
内に秘めた感情。
公生自身の想いと、「愛の悲しみ」を弾いていた母、早希の想いを感じるかもしれない。

 

悩んでぐじぐじしていないで、進んでみる。
しゃんと背筋を伸ばし、びっと行動する。
苦しかったり、怖かったりはあるけれど、
それはみんな同じで、
迷っていないで行動あるのみです。
本作はそんな思春期の迷いとの向き合い、泥臭い涙の戦いも描いているように感じます。 

 

迷って悩んでいても現状は進んでいく。
有馬早希はもういないのであり、
この事との『向き合い』はしていかないとならないのでしょう。
でないと公生の時計は本当には止まったままです。
時間を動かして、自分の人生に向き合うためにも公生は
母とのことに向き合い、彼女に別れを告げるべきなのでしょう。
そうしてこそ、有馬公生という一人の人間の人生も始まりだす。

 

元気になって欲しいと思える存在だった母を失って進めなくなった公生が、
それでも自分の生を前に進むためにも必要なこと。
いわばかをりの提示した課題は、公生にとって心の整理の面もあるのかもしれません。

 

練習の帰り道で公生はかをりと星空を見ます。

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  ©新川直司講談社/「四月は君の嘘」製作委員会

 

椿、渡といった友人たち、それにかをりという公生にとって大切な人たちとみた星空。
かをりとの星空は一緒に 『きらきら星変奏曲』を歌うことに。

 

公生から歌いだすというところに
彼がだいぶ明るさや朗らかさを取り戻したことを感じます。
これはかをりが変えたということ。
では、これから二人はどんな『きらきら星』へと変わっていくのか?
それは今後を追っていきましょう。

 

しかしこのシーン、コント的な演出を考え方ると、

 

「じゃぁかぁしぃわッ何時だと思っとんじゃ!!」

 

という近所のおっちゃんの怒鳴り声が飛んできて、

 

「そこの二人乗りー止まりなさいー」

 

というお巡りさんの声が聴こえてきそうですw

 

音が聴こえない、とは。

 

紘子さんが公生の音が聴こえなくなったことへ解釈をしていますね。

 

聴こえないことをどうこうするよりも、
それを利用してピアニストとしての自分を高める。
音が聴こえないことで、
物理的、肉体的な『聴覚』が与える音ではなく、
記憶や心象風景の音を優先してそれを演奏に表すことがしやすくなる。
それは誰にもできない、有馬公生というオンリーワンの演奏家を生むことに繋がる。
公生がかをりと出会い、改めてピアノに向き合うとき、
『変なピアニストになりたい』
と楽しそうに語ったが、これはそのためのこのうえない武器となるかもしれません。
音が聴こえなくなったことをネガティブに考えるのではなく、
自らを高めるための『贈り物』と解釈して活かす。 

 

快癒の方法が分からないなら
その障害に肯定的な理由付けをして前に進むことに利用し、促す。
それもひとつの向き合い方なのでしょう。
自己主張への迷いと怖れ。
自己主張することで悔いることへの怖れ。
そして音が聴こえないという障害と母への向き合い。
公生は一段ずつ階段を上って
かをりの示した『忘れられない風景』へと向かっています。 

 

公生は落ちたプールの底で水面の上から射す月光をみながら、
彼の心のなかで鳴る「愛の悲しみ」の音色を聴きます。

 

「もしかしたら、昏い海の底にも、光は指すのかもしれない」

 

音が聴こえないという心象の海の底。
でも、その音が聴こえない中にも『自身の内にある音』がある。
これが海底に水面から射す月光。

 

ここの解釈は当時は個人的に微妙でした。
椿役の佐倉綾音さんはここで公生が音を感じることを
『公生が音を取り戻した』
と仰っていました。

 

音を取り戻す……これについて以前は未熟な解釈で
失礼にも佐倉さんの考え方に否定的だったのですが、
今回の改稿で改めて考えなおしてみます。

 

この表現を改めて考えてまず思うのが、
物理的、肉体的な音の聴覚が戻った、というよりも、
公生が『精神的、心理的に』自分の音を拒絶していた、
だから自分の音が聴こえなくなっていたとうこと。

 

そもそも多くの人が序盤から考えておられたと思うのですが、
他の音は聴こえるのに、それに途中までは自分の弾くピアノの音は聴こえているのに、
途中から聴こえなくなる、
というのは肉体的な障害ではないのは明白です。
肉体的なら聴こえたり聴こえなかったりはしないでしょう。おそらく。
(いや、ある音程の連続やリズムのみ物理的に聴覚が働かない症状とか、実はあったりするのでしょうか?
とそれなら病院でということで、それは余談として)
これは、公生は自分にとって聴きたくない音を自ら、無意識で『精神的に消去していた』
と考えるのが自然ではないでしょうか。

 

少し表現を変えると、
公生の音が聴こえなくなる、という症状は無意識に
――なんらかの理由、例えば苦痛や辛さといった嫌なことなどから逃れるために必要で――
自分の音を否定したから起こったことだ、と言えると思います。
さらに考えると、
以前の聴こえなくなった時の公生の音は、
母が仕込んで譜面通りの音です。
それを彼が『精神的に消去』したということは、
公生は母のピアノを否定、拒絶したということになる、と。

 

母の幻影が言っていた『私の夢を拒絶した』とは、
むしろ公生のなかでは
『母の教えるピアノ、母に従っていた譜面通りの演奏(と音)』
の拒絶だったのではと改めて考えます。

 

本作の冒頭で描かれた少年公生が
母が亡くなったあとのコンクールの演奏途中で音が聴こえなくなった……、
これは、
母がもういないのに、酷いことをした母の指示通りのピアノを弾くことが公生は心の底ではい厭になり、
それから逃げる手段として
自分の音=母に従った譜面通りの音
を『精神的に消去』したのではないか?
母がいなくなってまで、母=母の教えたピアノに従うのは、つきあうのはもういやだ、と、
そう強く願う無意識が
自分の音=母に従った譜面通りの音を消去させて、聴こえなくなった。
これは、公生はこの時点で母に向き合うことをやめた、逃げたということかもしれません。

 

なんであんな鬼のような母親のために、
こんな譜面通りでみんなに嫌なことを言われるピアノを弾いていなくてはいけないのか?
もう母さんはいないのに……。

 

そう思って辛い現状から逃げるための手段が、母=自分の音を消去し、聴こえなくすること。
公生は母と、その母そのもののピアノと向き合うことから逃げるために
この症状を自らの精神で招いてしまったのだと考えられます。
それが公生の
『自分の弾いているピアノの音が聴こえなくなる』という症状のその真相ではないか?
と改めて考えました。

 

その公生は水中で意識がまどろむなか、自分が心の奥、深層心理に眠る音が思いだされた。
水中で公生は『自分のなかの音』が浮上してきた。
それは公生にとっては原初体験的な大切な音で、
こういう前後不覚の時に
自然と意識のなかにあることを確認できるような音だったと思います。

 

このシーンはとてもメタファーが利いていて、それらを読み解くと、
月が死相を表す、という解釈にのっとるなら、
月=もういない母、
母=「愛の悲しみ」
「愛の悲しみ」=心象風景、原初体験のピアノの音
音の聴こえない海底(この時は物理的にはプールの水中)=公生が『精神的に消去していた自らの音』の世界
公生のピアノの音=母に仕込まれた譜面通りの音

 

であり、
その月光、月からの『光』(母と「愛の悲しみ」)
が海の底(自分にとって辛い母の仕込んだ音を『精神的に消去』した世界)
の公生に射すことで
音の聴こえない公生の耳、ないし脳裏に「愛の悲しみ」の音が甦った、

 

というこのシーンは、
母=自分のピアノの音な公生は、これまで
母に従っていた譜面通りの音を『精神的に消去』していたが、
同じ母のもたらしたモノでも原初体験の「愛の悲しみ」の音が意識にあることに気づき、
(水中で危機であることを忘れるくらい)その心地よさ、温かさなど心安らぐことを感じた公生は
それが聴こえることを肯定した。受け入れた。

 

言いなりの譜面通りの音はこの時点ではまだ否定しているかもしれないが、
原初体験の音を大切なモノとして優先する形で
『精神的に消去』しながらも音が聴こえるようになった。
母の音を否定し拒絶して聴こえなくなっていたが、(モノによって)聴こえるようになった。

 

心のなか、心象風景のなかの自分の音を耳が聴くことを公生は自分に許し、
音を『精神的に消去していた』公生が自らの心に音を復活させた、
言い換えると、演奏時は途中からまったく聴こえないようになるくらいに
自ら封じていた『音を取り戻した』のだと改めて考えます。

 

佐倉さんがそこまで理解されたいたかは、
ラジオでの発言だったので時間内で語りつくされるわけにもいかず、
こちらには正確には分かりませんし、
もっとシンプルにお考えになられたとも考えられます。
なんにせよ、自分としての理解でも
こう考えるならばまさにその通りだったと今なら頷けます。
なのでだいぶ時間はかかりましたが、
佐倉綾音さん、その節は愚かなことを言って申し訳ありませんでした。
謹んでお詫び申し上げます。 
(これが考えすぎのまたしても誤解だったとしても構いません。
これもまた心の整理なのかもしれません)

 

そしてガラコン当日。
かをりが来ません。
何があったのか?
大事でなければよいのですが。
しかし演奏の出番は迫るので通りかかった藤和コンクールで優勝者だった
三池くんに順番を変わってくれないかと紘子さんが頼みます。
しかし三池くんはかをりの演奏に否定的で拒む。
加えてかをりへの批判もするので、公生は

 

「今日の主役の座は、僕らが貰います」

 

と宣言し舞台へ。
この辺にも自己主張への迷いと悔いの怖れを乗り越えた様子がうかがえます。 
かをり不在でひとり舞台に向かった公生。
伴奏者一人でやる気ですか?この舞台は一体どうなるのか!?

 

しかし2クールのエンディング絵が、
『黄昏に没する』みたいで不穏すぎます。
これは月刊マガジンの原作最終回、
かをりとハッピーエンド以外を覚悟しておいた方がよいのでしょうか、
という気にさせられます。

 

でもでも、カラフルな本作でビターなラストって、
それはありですか?どうなの?という不安でぐるぐるしながら
本作の結末が気になりすぎます!

 

ではまた次の君嘘の感想で。