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とーしろさんの趣味よもやま話の通用口。

「つながる母子の想いに涙。『四月は君の嘘』第13話感想・改稿」

 

アニメ『四月は君の嘘』第13話の感想、改稿文になります。
おつきあいくださると幸いです。

 

公生の幼い日の記憶は、
微睡みの中で聴こえる温かな母のピアノ音、
クライスラー「愛の悲しみ」
ラフマニノフ ピアノ編曲版
とともにあるようです。
冒頭で描かれるそんな昔の風景ですが、
母、早希さんと友人である紘子さんも
旦那さんとのもめごとのたびに有馬宅に避難してきて
彼らの日常の一部としてそこにはいて、
そんなあるとき、紘子さんは公生にピアニストの才能を見出して音楽の道に導いた様子も描かれます。

 

余談ですが、ここでの紘子さんセリフ
「謝ったら金輪際おしまいなの」
は意味深です。
最終回までみたあとで考えると、新川先生がもともとある本作の結末に関して、
でもこのキャラが愛おしいから変えます、編集部さますみません!
となったとしたら、それは創作人生に今後よろしくない十字架を背負うことになるような、
そんな新川先生の葛藤が後からみるとこのあたりにうかがえます。
謝ったら、というよりも、本来の形を誤ったら、
なのかもしれません。深読みかもしれませんが。
あとから思うと、原作漫画のこのシーンの背景画、
『道を極める』とは、
自分の新川先生の漫画道を極めることへの再確認の意味もあった台詞だったのかもしれません。
アニメのみで原作漫画を読んでいない方は、
興味があったら是非手に取ってみてください。

 

本話では公生が、本来かをりのためのガラコンの出番に一人舞台に向かいます。
今の公生は、
かをり不在のため彼女とともにガラコンで演奏する目的や、
かをりが「愛の悲しみ」を課題としてくれたことよりも、
三池くんに自分のパートナーであるかをりを悪く言われたことへの怒りに燃えているようです。
 

宮園かをりはすごい。
そう証明するために一人で、しかも本来ヴァイオリンのガラコンなのに
伴奏者のみで演奏を始める公生。

 

公生にとってかをりはそれだけの存在であり、
常識的にまわりがへんな目で見たとしても
構わずその自己主張をすることを選ぶ。

 

「僕を見ろ!」
つまり、今の僕を生み出した存在である宮園かをりのすごさを見ろ!

 

と公生が弾き始めた曲は

 

クライスラー「愛の悲しみ」ラフマニノフピアノ編曲版。

 

伴奏曲ですらなく、
ピアニストの己の領分の演奏。 

 

かをりの価値の証明のために。
けれど弾いてわずかで聴衆の反応は分かれる。
技巧、迫力。
だが聴きに来ていた絵見や落合先生にはいまいち不評のよう。
先生には「耳障りだわ」とさえ思われた。

 

公生の母、有馬早希さんが好きだったこの曲を、
なのに公生は大きな価値をおく宮園かをりをバカにされたことで
怒りにまかせて乱暴に演奏していたのだ。

 

ここで公生は自身の音が聴こえなくなることで
ピアノの鍵盤を叩く力のつよさに気づきます。

 

ところで、ここで音が聴こえなくなるのはどうしてか?
前話までの感想で改めて、公生はこれまでは
母に辛い目にあわされてまで、
周囲に嫌なことを言われる彼女に従った譜面通りの演奏をすることを嫌だと無意識に感じ、
母のピアノと演奏を拒絶したから、
母とそのピアノと向き合うことから逃げたことから、
自らその『精神的に音を消去する』という症状を負っていたと解釈しました。

 

それがここで聴こえなくなるわけは?
……と考えたとき、思い浮かぶのはまず、

 

無意識のなかに母の音があることを肯定し、
譜面通りの音は肯定しきれないまでも、
原初体験の母の「愛の悲しみ」の音は聴こえることを受けいれた公生だったが、
自身の演奏の『原初体験の母の「愛の悲しみ」の音』以外は
譜面通りの音と同じ扱いだった。
だから、原初体験の音を弾いていないことを耳が認識したとき、
その音を拒絶して聴こえないモードに入った、という考え方。

 

もうひとつ考えられるのは、
原初体験の母の「愛の悲しみ」の音を聴こえるようになって、
『自分の音が聴こえる状態』は取り戻したけれど、
集中すると聴こえなくなる状態が癖としてのこってしまっている、という考え方。
聴こえるけれど、集中すると音offモードに入ってしまうのが今の公生、
だとも考えられます。
ただし、それでもプールの水中で取り戻した自身の無意識にある大切な音は同時に再生可能のようです。

 

ここの解釈は難しいですね。
この話数では結果として「愛の悲しみ」から出る公生の母への答えの方に集中してしまいがちで、
その過程の音が聴こえるどうこうは気にしても仕方ないとも言えるのですが……
じゃあ公生が自分で「愛の悲しみ」の弾き方がこれじゃダメだと気付くとしたら、
他にどういう展開があったのか?
そう考えると、この時の荒々しい「愛の悲しみ」の音を自分で聴いた(聴こえていた)公生が、
違和感を自己に伝えるために無意識でoffモードを発動させて、
自ら今の粗雑な演奏に気づくように導いたのでは?とも考えられます。
うーん、なんでしょうねこのシーンは……アニメ放送当時からだいぶ経ちますが、
今考えてもちょっと自分的に不可解です。

これを読まれた方で、上記への肯定意見、
もしくはもっと良い解釈があったらコメントしていただけると嬉しいです。

 


自分の演奏と母の「愛の悲しみ」

 

自分の演奏が力み過ぎで
これでは母の好きだった「愛の悲しみ」ではないと感じた公生は、
意識のなか、記憶のなかにある母の演奏が子守歌がわりになっていた
「愛の悲しみ」の音を再現しようと弾いてみます。
そして変わる公生のピアノの音。

 

音が聴こえないことでうまく弾けなかったのが、
音が聴こえないことで別物の音を奏でることができる、
というのは今思うと斬新です。
ハンデを逆手にとってより効果を出す、
というのは過去の何かの作品でもあったような気が朧気にはしますが、
この年代になってやってくる作家さんというのも珍しく、
かえって新鮮という言い方もできるのでは、と改めて思います。

 

前話の感想で
母、早希さんは公生のことをどう思っていたのか?
ということについて触れましたが、
それは病の身でさきに逝ってしまう親として
公生が心配だったから、
彼女なりに出来ることを必死にやっていたということだったんですね。

 

ここについて改めて考えると、
現実的に冷静にみると人間ピアノ以外にも
いくらでも食っていく方法は探せるものですが……
この辺はやや作品の無理のある点かもしれません。
ピアニストの物語として、ピアノに固執した人々を描かざるをえない故の
どうしてもの不自然感。
ただ
親によっては自分の考え方に子供を当てはめて、その通りじゃなきゃ嫌という
そういう人間もいるといえばいる……、
それとも、早希さんにとって公生とピアノで過ごした時間はとても大切であり、
自分とともにあった記憶として公生にそれを続けて欲しかったのか……
それも一種の愛に感じます。早希さん……(泣

 

うーん。この話数は公生と母親の想いに
自分も10年規模くらいぶりにアニメを見て泣いたくらいだったので、
当時からあまりしっかり考えて見ていなかったようで……
けれど改めてみてもさまざまなキャラの想いが短い中に表現されていて驚きます。

 

当時のアニメ放送後に設定考察記事として
自分は創作的な意味合いを中心に考えていましたが、
今はキャラの心理やどう考えていたかなどについて興味深く考えて触れられます。
 

うーん、今見ても

 

「私の宝物は……」

 

のセリフに感じる子を残して逝く親の無念の切なさに涙が出ます。

 

そんな早希さんは公生に何も残してやれない酷い母親だと涙していましたが、
でも公生が今、母の「愛の悲しみ」を弾いて
自分のなかに母の存在を感じるように、
そして母がいてくれて、ピアノを教えてくれたからこそ
宮園かをりという、
紘子さんがいうところの公生にとってかけがえのない誰かと出逢えたわけで……
だから出会えた感動も喜びも、それは早希さんが公生にのこしたものなんですよと……
そう考えるとこのシーンがさらに泣けます。
公生がそれに気づいて、母に教えられたピアノを今弾いていることに対して
『幸せだよ』
と見出すのがまた……。

 

これによって公生は母=ピアノを肯定した。
母とピアノと向きうことができて、これらへのネガティブな感情を振り切ることが出来た。
母の影も、聴こえなくなるという症状も、
暴力的な仕打ちをされたことで抱いていた母への怖れや反感に端を発し、
母とピアノから逃げるために自らの無意識で招いた病だった。
これらはすべて、母と正面から向き合うことをしなかった公生の弱さが招いたことだった。

 

でもいま、公生のなかで母の認識が変わった。
紘子さんの回想のなかで早希さんの本音が描かれますが、
公生には正確にはこの時点でそこまで詳しくは分からなかったかもしれません。
それでも公生にとってピアノを通して時間を共有した母は、
自分を嫌ってなどいなかった、と公生は理解したはず。
もしかしたら、

 

「「愛の喜び」と「愛の悲しみ」があるのに、
どうしていつも「愛の悲しみ」を弾くの?」

 

という公生の問いに対しての母の言葉に、
早希さんはこれから自分がいなくなる悲しいことになっても大丈夫なように、
この曲を(母の教えるピアノや演奏)を公生におくっていた、
と公生は解釈したのかもしれません。
自分を嫌っていたのではなく、自分の先行きのために
あそこまで苛烈に接していた。
それも分かったうえで、今こうして母の示してくれたピアノのおかげで自分は
さまざまな出会いと感動、喜びに出逢えた。
だからもう、母への否定はなく、感謝しているし、
母=ピアノとともにありたい、歩んで行こうという気持ちにも公生はなったのかもしれません。

 

公生は、そんな母への感謝と愛という
自身の母への本当の想いにたどり着いたともいえて、
だからこそ母の拒絶から形作られた影に悩まされていたことから今、確かに開放されたのだと思います。

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  ©新川直司講談社/「四月は君の嘘」製作委員会

 


 

そしてもういない母に、いまようやく正しく
「さよなら」を告げるのでした。

 

この演奏を聴いている椿がね、涙ぐんでいます。
あの勝気でガサツな椿が。
これは公生の変化、成長に感動したのでしょうかね。
お母さんが亡くなっても泣きもしなかった公生が、
ここまでお母さんを思って演奏した。
母と正しく向き合える人間になった。
公生への母性ある椿としては、思わず涙ぐむ案件だったのかもしれません。
だからこそ、演奏のあとで渡や紘子さんとあわせて公生にあったとき、
普段通りに会話している自分に『残念で泣きそう』になったとのだと思います。

 

公生は先に進んだのに、自分はこれまで通りに公生と話してしまえる。
それはこれまで通りの関係の安心感とともに、
私は子供のままだ、というおいていかれた感でもあるのかもしれません。

 

自分より大人になった公生と、少し話し難いくらいの方が
自分にも成長した公生に応じて変化が生じたのでは?
それを自分はこれまで通りというのは、自分だけ昔からのままに留まっていないか?

 

公生だけ成長しておいていかれた感からくる違和感ではなく、
公生は成長したのに自分は何も変わっていない、なのになんで普通に話せてるの?
ひけめを感じて少し普通に話せないくらいの方が、私も何か変わったんじゃない?
公生が変わっても私は昔のまま普通に話せる人間なの?
それはそれで椿は子供のままで止まっている。

 

ということをなんとなく椿は感じて、
むしろ話し難いほうが良かったのでは?という意味で残念な涙と
そう思ったのかもしれません。
ここも難しい表現でしたが、
これから椿にとっての変化、成長の始まりとなるシーンだったと改めて考えます。


演奏後。

 

母の存在を自分のうちに感じて、
そこから母と母の与えてくれたピアノへの感謝、
母への愛を演奏にのせた公生は、それが母に届いたかな?
と切なくなり泣きます。
それを紘子さんは抱きしめて肯定します。

 

同じ公生が泣いていたとき、
母が亡くなった直後の演奏で音が聴こえなくて震えて泣いていた公生を抱いた時とは違う、
あの時は公生への謝罪と懺悔と
自身がピアノを薦めた結果こうなってしまったという後悔がありましたが、
今、公生に手を伸ばして涙する彼を抱きしめる紘子さんの想いは違います。
母への思いで苦しんだ公生が答えを見つけた、その苦闘を労わるように、
彼が母へのわだかまりから脱け出したことを祝福するように。

 

今回の公生の演奏にライバルたる者の開眼を見た絵見は、
邪悪に喜び
 

「強敵をぶちのめす。これぞ至上の悦楽……!」

 

とかなり弩Sなことを申しております。
さすがえみりん、一味違うのね……!

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  ©新川直司講談社/「四月は君の嘘」製作委員会

 

 

同じく公生の演奏に『撃ち抜かれた』
三池くんは演奏への考え方や姿勢がかわり、
彼は今後有馬公生信望者になってゆくという……。

 

ガラコンから翌日、
紘子さんは小春ちゃんをつれて落合先生とお茶をして、
有馬公生と早希についてお話しをしています。

 

母を失ったことは悲しいことだったけれど、
演奏家としては必要な事だったかもしれない。
 

それは残酷なこと。
愛する者の喪失さえ己の業に活かして高みに上る。
表現者。アーティスト。
こういう人種にはそれが悲しい出来事であっても
感情を大きくらすことになる経験があった方が、
そこから出る思いから味や深みが増す……
それは業の深い道であり、
だから先生は「鬼の通る道」
と表現します。

 

鬼……鬼籍。
紘子さんは言う。
悲しみが彼を成長させるのならば、それが公生に必要ならば、
彼は失って進むのかもしれない、と。

 

その台詞にに重なるかをりの入院姿。

 

これは……かをちゃん、やっぱりそうなのか?
そうなのか。
どうなのか。

 

母と公生の想いがつながる感涙の余韻を残しつつ、
ラストはさらに不穏なフラグが積み上げられて、
心配と不安で別の意味で泣きだしそうです。

 

創作的に見ると、
積み上げたフラグの結果に対しての公生の乗り越え、
アンサーが物語の結末にも感じますが、
けれどこの悲しみの気配のフラグをぶっとばして、
世界をカラフルに彩付けるような幸せなラストも期待している自分が居て。
うーん……一体どうなることやら。

 

この回では本当に久しぶりに映像作品で落涙した経験だけでも、
四月は君の嘘』を読み始めて、
アニメを視始めて、視ていてよかったと思えるのですが……。
けれど最終回がどういうモノになるかわからなくて、
不安で、また楽しみで、そしてまた怖くて、期待が高まってしまいます。

 

ただエンディングテーマをよく聴くと、

 

「残されたモノ何度も確かめるよ」

 

とあって、
これ誰の事ぉぉぉおおおおおおっおおおおいいいいっ!!!
と取り乱してしまいます。
そんなアニメ四月は君の嘘

 

ではまた次の感想で。