1046ワークス24口

とーしろさんの趣味よもやま話の通用口。

「世間の風潮的に認め辛いかもだけど、人間基本は弱いものだから。先日の香取慎吾さんのポストを見返して」

 

今回は、
先日のTwitterで話題になったようですが、
忙しく見てなかったが香取慎吾さんの

強くなくていい 弱くていいから 今を生きよう

というポストの話題からすこし
書かせていただきます。

 

戦後の日本教育というか風潮。

 

戦後復興と高度経済成長、バブルの時代と、
頑張ればいい結果がでて成功、幸せが約束される、
そのためにいい会社に入るために、
まずは学歴、そのために勉強をがんばり競い合う、
という競争社会がいつしか形成されて当たり前になっていました。

 

そんななか、多くの人は一般的な価値観や風潮に巻き込まれてきたと思います。

 

他人との比較と劣等感のワナ、
社会の示す成功や経済的裕福さ、有名性、物的な豊かさ、
そうした普遍的価値への迎合、
みんな幸せだと言っているから乗っかっておけば安心、幸せになれるかも……、
(ある種の思考停止、怠惰)
その手段としての学歴、入試戦争、収入の競争社会、

 

空気を読み皆と同じじゃないと叩く、叩かれる、
過剰な身内や他人の期待とプレッシャー、
迷惑かけない良い子な自立の教育……
などの戦後日本。
対外的に国を立て直したかったのは分かります。

 

しかし、このポストのもとになったように、
痛ましい事態に陥る人も生み出す価値観と風潮ではありました。

 

すべての人が幸せになる豊さなどないと思いますし、
よりよくを各々が求めると、どうしても格差は生じて苦しむことにもなる
とは承知していますが、
しかしその普遍的価値の要求する頑張りに悲鳴をあげる
(時に声にならぬ悲鳴も数多かったことでしょう)
人も多いのが実際だと思います。

 

結果のために頑張れる強くある人間、
一生懸命、
人より結果を出そうと思ったらなおさら。
そういう価値観、風潮の蔓延。
それがこの50年くらいの日本にはあり、
様々な社会問題の温床、一端になっていたと今は冷静に思います。

 

この根っこにあるのは、
でも人間、本当は皆間違うし、完璧はないし弱いのが基本。
ということだと思います。
そしてそういう人の方が圧倒的大多数なのです。
松下幸之助さんなどで知られるの262の法則ですが、
本当に一生懸命をして、し続けて平気で結果も出せる人は、
この全体の良い『2』なのだと思います。

 


現実について冷静にいうと、
誰もが何かで誰かに敗れ、完全な勝利者や勝ち続ける者は存在しないし、
強そうに見えても何かの欠点を抱えて誰かにコンプレックスを感じるのが人間で、
みんなそういうモノなのが実際、現実。

 

完全に一人で生きてける人間などいないのも同じで、
どこかで誰かの陰の支えがあって自分の今の安定や快適は成立していて、
それがないと場合よって病気になって、一人ですべて解決できない場合の方が多い。

 

そういう一人ですべてまかなえない弱い存在なのが人間で、
世間が価値ありとするような強さや、
価値に見合うための過剰ながんばりは社会の発展が求めた一種の理想型に過ぎない。

理想を求めて向上することやうまく結果が出ることもあるが、
人間の本質は弱い存在であるということから目を逸らした理想でもある。
だから人によって(それは実は結構な大多数)本気で真面目に無理してそれがたたる人も数多い。
それが本当は現実だと自分は経験と学びから思います。

 


でも、弱いと認めると他人が笑いものにして、
世間の目も一般的価値観で信用されない傾向が多くあり、
それだと価値がさがり、
結果幸せも低下するからみんな弱さを認めることを直感的経験的に厭う。

 


人が無理をしてがんばるのは、
価値があるから、自己の向上や目的の達成、よりよい状態や結果、
社会的一般的な相対的に感じる価値や優越感、
ひいてはそれが何らかの幸せに繋がるからと
皆が上記の社会的普遍的価値に迎合する風潮からしてしまっているのがあると思う。
それで得る幸せもあるが、
この香取慎吾さんのポストに則っていうならば、
過剰にそう在ろうとすることの『幻想』に気づけると楽になるのだと思う。

 

そしてそれらの弱いという現実、ネガティブに世間に捉えられそうな事柄は、
実は当たり前で恥ずかしいことじゃないと自分は思っている。

 

他人より劣っていると笑いものにする手合いが世の中には必ずいるが、
それは彼ら自身が身体的や境遇的、経歴的に苛まれる劣等感から
『自分はみんなに笑われている』
と思い込むことからくる通り魔的な復讐、憂さ晴らしにすぎない。

 

彼らのようなネガ感情の消化と昇華の仕方が幼稚な人間を
まともに相手をして強がらなくていい。
知らんぷりして合ったようでいいんだと心得て、
彼らと世間の過剰な価値観の迎合傾向に距離をおくことが、負担を減らすのは確実だと思う。

 

 

弱さという現実と、頑張っている人の実際。

 

その上で言うと、夢や理想、人より優れた力や地位を望むなら
そうした様々な己の弱さという現実との真っ向勝負になるのが実際です。

 

そういうポジティブさは夢みがちと一般的に呼称されるふわふわしたものじゃなく、
本当のところは超リアリストの領分なのだと考えます、自分は。
夢や目標の結果というのは
リアリスト同士で鎬を削ったあるタイミングの結果。

 

彼らはこの争いに勝つことで得る価値のために競うのですが、
肝心なことだが人間の価値観は、世間が示す声が大きいモノただ一つではない。

 

人は幸せのため、
それを社会で満たしうる『分かりやすい価値』のために無理しがちなこともあり、
それでときに痛ましい結果にもなってしまこともある。
そんな時、
『自分のそのままで』をあなた自身が肯定することは大切。

 

現実には人より何かで劣るけれど、それはみんな何かの点で同じで、
誰もが本来は同じ。
うまくうわべのステータスで他人や世間に優位に一時的に立っているに過ぎなくて、
誰もがおなじ弱い存在であるのが現実。
弱くてもいい、
人間そういうものだから、とそういう考え方ももつ。

 

そう考えて社会の示す一般的な価値に対して、
ある程度やんわり距離をおく選択肢、価値観もあるのだと
香取さんのこの話題のポストは示しているのでは。

 

がんばるのって、基本は褒められたり、よりよい報酬のための投資ですが、
それで心身を追い詰められて、結構ロクでもないことなるようなら、
それは世間の示す風潮を疑ってみるべきです。

 

幸せになるための手段を提示しているはずですよね?
それがその苦しさというのはどういうことか?
自分の場合は間違った手段ではないのか?
ほかにも自分の場合は幸せに繋がるやり方があるのではないか?
どうしようもなく辛い状況でそう思ってみたとき、
みんなが示す、社会が推奨するがんばる、一生懸命という選択肢以外を
自分なりに模索してみるのも良いと思います。

 

その場合、自分の非はほどよく認めて、
友人や同僚、先輩、身内や自治体、
相談窓口やなんらかの周囲に、素直に助けを求めてみましょう。
そうしてそんな自分なりの出来ることをたゆまず行う。
そこに人って、他人との比較という相対的な価値ではない
自分に胸を張れる瞬間があると思います。

 

みんなと同じを目指して一人で気張りすぎるのも考えもの。
Let's take it easy. 気楽にいこう。

 


今回は、香取慎吾さんのポストから、
自己の考えと照らし合わせてそんなことを書かせていただきました。

 

ではでは~。