読書感想になります。
今回から一冊ごとにポストしていこうと思います。
内容は、読書メーターにアップしたものの長文ver.です。
宮本武蔵 (六) 吉川栄治
本巻も武蔵と小次郎のそれぞれの動きが描かれる。
江戸の街中から距離をおき、少年伊織を見い出しエモノを鍬に変えて荒地を開墾しながら、弟子に 『教える』 に至る武蔵。その取り組みのなかで 『世のながれに反かない』 という剣と人のこころを見い出すまでの人物になった。
その裏で小次郎が仕官と高禄の野心を燃やし、細川藩の家臣たちと君主忠利の間で存在感を増し、武蔵と天秤に懸けられていく。
因縁の闘いへの間奏曲となる。
こちらも始まりは剣名によって己の価値を世間に知らしめることが望むところの荒ぶる野人だった武蔵だが、今巻ではその剣を相手を斬り殺すだけが刀の意味ではないという心境に至る。人を満たす、人を治るための刀。
そのためならば相手から逃げることも、それで武士の恥と嗤われても構わない。従来の面子という誇りを重んじる武士とは一線を画す在り方を示す。
武士としての多くは己の野心のために体面を重んじ、利用できるモノは利用し、斬り伏せる小次郎に近い。
そう見ると武蔵は、雑念を捨てて剣に生きるという点で、職業と立身の一手段としての多くの 『武士』 ではなく、水際立った技に見合う高い精神を備える 『武人』、『真の武人』 たらんとしているようにも見える。
この二人が雌雄を決したならば勝負の果てに何を想うのか? 命の儚さか、武の業か、人の弱さか、脆さか、欲の恐ろしさか、それとも懸命に己のままに剣に生きたもう一人の自分への最大の礼と敬意、感謝か。
また、天平の古材をすべて削りきってしまった武蔵だが、それがうまくいかなかったのは、前例の開墾に関する人を治める自らのやり方が一度うまくいったがために、『うまく出来る』 『うまくやろう』 という欲などの余計な雑念が古材を彫る刃にのってしまったのではないかと思う。
だから、その雑念を置き去りにした無心の刀のこころ、『空』 を漠とその心に思い描き、彼はここから拓けていくのではないかと思われる。
我欲から離れ、人を傷つけるだけの刀から離れ、人を満たし
治める剣に近づき、無心に天地と一体となる刀は何をあらわすのか?
武蔵の剣の道がどのように彼なりの答えに至るのか、そして小次郎は彼の心に何を刻むのか。宿命の決闘までまた続きを読みたいと思う。
……ではまた次の本で。