1046ワークス24口

とーしろさんの趣味よもやま話の通用口。

「公生の症状と再生について改めて考える。『四月は君の嘘』第12話感想・改稿」

 

アニメ『四月は君の嘘』の第12話(2クール目)の感想、改稿文になります。
おつきあいくださると幸いです。

 

OPテーマ曲が『光るなら』から『七色シンフォニー』に変わり
2クール目に突入!
 

かをりとのガラコンサートに向けて二人で練習する公生。
時期的に夏休み頃で、補修を受ける椿の不満そうな様子がうかがえます。

 

夏の陽光と風が音楽室にさすなか、公生とかをりは二人の時間を過ごす。
割と順調そうな二人の時間……と思いきや、
公生のどうにも乗り気ではない演奏にかをりの乱暴なダメ出しが炸裂しています。

 

公生はかをりのガラコンのための選曲、
「愛の悲しみ」を何故嫌がるのか。
冒頭、公生宅のピアノ部屋で彼は楽譜棚に違和感を覚えます。
かをりの指定である「愛の悲しみ」の楽譜を確認しようとして、
それが以前さしてあった場所はここだったのか?
と疑問に感じたのです。

 

ふむ、公生以外にピアノ部屋に入った人物で、
作中で描かれているのは
紘子さん、小春ちゃん、あとは川ダイブのときのかをり。
この誰かがたまたま、もしくは任意でその楽譜を触ったのか?
それに関しては、
「楽譜はあんなにも愛にあふれていたのに……」
が物語ります。

 

それはそれとして、かをりは何故この曲を公生とともに弾こうと思ったのか?
公生もそこは気になって(というかこの選曲を避けるための言及として)
かをりに問いますが、
色々言いあいながらもかをりの押切に結局は従うことに。
この時のかをちゃんの顔は作中でもトップクラスの変顔かもです。

 

この辺のかをりの意図はなんでしょうか?

 

公生の母が好きだった曲であるということは、
彼の口からかをりに伝えられたシーンはありません。
けれどコンクール前の吐いたあとの会話で
公生が母にネガティブな印象を持っていることをかをりは知っています。

 

これは推測ですが、
有馬宅のピアノ部屋を訪れた際にかをりは棚で特に使い込まれた、
かつ古そうな「愛の悲しみ」の楽譜に目がいった。
その楽譜に目を通して、奥付の発行年から
公生が生まれる前の書籍であること、
つまりこの家でピアノを弾いていたもう一人、
公生の母の所有物であることをかをりは察した。

 

加えて、それが古いだけではなくかなり使い込まれて痛んでいたとなると、
よほどこの曲を公生の母、早希さんが愛して、
繰り返し弾いていたことをかをりが想像したのではないか、と考えられます。

 

それは同時に、公生が幼いころからその部屋で早希さんがこの曲を弾くのを
何度も聴いていたということにもなる。
つまり、この「愛の悲しみ」は公生にとって母の記憶とつながっている、
とかをりにも結び付けられる。

 

これらの考え方をかをちゃんが理論的に考えたか、
それとも直観的に理解していたかは詳しくは分かりません。
ただ、公園で公生の昔話を聞いているときの顔が
やや目が大きくなって何かに気づいたような雰囲気もあるのが、
かをりの察する力を裏付けていると言えるかもしれません。

 

ところで、かをりは
「君がこの曲を嫌がるのなんでかな?」
と疑問そうにしていましたが、これはもしかしたらダウトかもしれません。
公生と早希さんの繋がりを「愛の悲しみ」に感じてチョイスしたならば、
公生が母の影で操り人形であると悩んでいたことや、
母の夢を否定した罰として音が聴こえないと考えている公生が、
早希さんに対してネガティブな感情を持っているのはわりと自然なことで、
だから母がよく弾いていた曲は彼女とその嫌な印象を思いおこしてしまい、
公生はこの曲を嫌がる。
これはかをりほどの理解力、感性の人間なら想像がつくことのように思えます。

 

つまり、嫌がると分かっていたけれど、
あえて公生にとって母の記憶とつながるこの曲をかをりは選んだ、とも考えられるのではないかと。
母さんの影にいる、とうつむいていた公生に対してのそのまま課題なのでしょうかね。かをりからの。
弾けば何かが変わる。そう信じて。

 

もしくは、本当は公生が母のことを嫌いではないのでは?
とかをりは解釈していたとも考えられます。
公生のピアノ部屋を見て後日、コンクールへの練習中の夜の学校で
「愛しいけれど触れられない」
とかをりが公生のピアノへの感情を解釈していましたが、
それは

 

ピアノ=母

 

な公生にとっては母も同様に「愛しいけれど触れられない」位置づけだから……
と考えることもできるかもしれません。
そうだとすると、嫌な記憶もあるけれど、
公生に母への大切な思いを取り戻して欲しいという気持ちもあったとも改めて思います。

 


OPテーマについて少し言及します。

 

詞が物語後半戦をよく表わしているような雰囲気があります。
そして天に昇ったシャボン玉がはじけて混ざるのは、
どういう意味なのか。

 

メタファーとしては場合によってはかをりへの公生の想い、
かをりとの思い出が形は消えるけれど確かにあったモノとして
公生のなかでのこっていく、みたいな表現にも感じます。

 

か、かをちゃん、一体どうなるの……ッ!

 

OPといえば、タイトル部分に英小題があるのですよね。

 

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 ©新川直司講談社/「四月は君の嘘」製作委員会

 

原作コミックスにも表紙にちゃんと書いてありましたが、
ちょっと気づいていなかったです。
また言及されているサイトも見かけなかったので(2015年当時)
この機会にその英文を載せておきます。
(※この記事は再稿文なため
2015年当時にもすでに当ブログの前身で記載していました)

   ⇓   ⇓   ⇓

I met the girl under full-bloomed cherry blossoms
and my fate has begun to change

 


『私は満開の桜の木の下で女の子に会いました、
そして、私の運命は変わり始めました』

 

という内容なんですね。
どういう意味かはここまで四月は君の嘘を見てきた人たちには
実感できると思います。
ではこの変わった運命は、公生をこれからどんな姿に変えるのか?

 

そのステップとして今、公生は「愛の悲しみ」と向き合いますが、
彼の心にあるのは母への後悔。
一人で部屋で弾いていても母のことを思いだし、
気分転換にと紘子さんと小春ちゃんと出かけた夏祭りでの会話でも
あんなひどい言葉を投げつけた自分を母は憎んでいるのではないか?
自分はピアノを弾いていいのか?
と「愛の悲しみ」を演奏することで演奏自体にさえ公生は悩みをもらします。

 

酷いことをされた怒りとはいえ、
あんな悪逆を口にして、
そのまま永遠の別れとなってしまった実の息子を母はどう思っていたのか?
公生はもう会えない母への罪の意識でどうするべきか悩みます。

 

母の言いなりで自己主張しない子供だった公生は
怒りの形だったとはいえ自己主張をして、そのことで悔いたけれど、
自己主張して悔いること自体はもう
『君のために弾こう』という目的意志のために問題ではなくなっています。
でも、母の気持ちも知らずに酷いことを言ってしまったことに対して、
もう取り返しようもないからこそ拭い去れない罪悪感と後悔で公生は思い悩む。
ピアノは母の記憶そのものだから、
ピアノを弾くことで母との良いモノも悪いモノも含めた思い出と向き合うことは避けられない。
公生はピアノを弾くうえで、音が聴こえない症状とともに、
母への後悔に対しても決着をつけなければ前に進めないようです。

 

では公生の母、早希さんは公生に対してどう思っていたのか?
早希さんは何故、あそこまで苛烈に公生に指導したのか?
公生の気持ちをまったくわからないということもないだろうに。
母が何を思っていたのか?公生が疑惑をもつように彼を嫌っていたのか?
母の思い通りに弾けない子供を憎んでいたのか?
けれど、病気で先が長くないとしたら、その母が一人息子に思う事……、
それは次話、ガラコンでの演奏で改めて。

 

母の意図が分かれば、
そうだったのかと分かれば、
少しはマシかもしれないのか?

 

公生はひとつの可能性として、
母が自分を憎んでいたからでは?
と考えて悩んでしまう。
それだけの肉体的、精神的な苦痛を与えられた幼少期だった。
あそこまでする人間の気持ちは、こちらを憎んでいたからではないか?
と考えるのも無理からぬことです。

 

紘子さんに吐露したその言葉に、彼女は同じ母親として
子供を憎む親なんていない、
という答えを与え、公生を導きます。

 

そして 

 

「だったら弾こうよ。
迷いがあるなら、びしっとピアノ弾いて、
早希の声を聞こうよ」

 

と励まします。

 

「愛の悲しみ」を弾くことで何かが変わるかもしれない。
目を背けていた母のことを、
この曲を通して向き合うことで見えること、感じることがあるかもしれない。
内に秘めた感情。
公生自身の想いと、「愛の悲しみ」を弾いていた母、早希の想いを感じるかもしれない。

 

悩んでぐじぐじしていないで、進んでみる。
しゃんと背筋を伸ばし、びっと行動する。
苦しかったり、怖かったりはあるけれど、
それはみんな同じで、
迷っていないで行動あるのみです。
本作はそんな思春期の迷いとの向き合い、泥臭い涙の戦いも描いているように感じます。 

 

迷って悩んでいても現状は進んでいく。
有馬早希はもういないのであり、
この事との『向き合い』はしていかないとならないのでしょう。
でないと公生の時計は本当には止まったままです。
時間を動かして、自分の人生に向き合うためにも公生は
母とのことに向き合い、彼女に別れを告げるべきなのでしょう。
そうしてこそ、有馬公生という一人の人間の人生も始まりだす。

 

元気になって欲しいと思える存在だった母を失って進めなくなった公生が、
それでも自分の生を前に進むためにも必要なこと。
いわばかをりの提示した課題は、公生にとって心の整理の面もあるのかもしれません。

 

練習の帰り道で公生はかをりと星空を見ます。

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  ©新川直司講談社/「四月は君の嘘」製作委員会

 

椿、渡といった友人たち、それにかをりという公生にとって大切な人たちとみた星空。
かをりとの星空は一緒に 『きらきら星変奏曲』を歌うことに。

 

公生から歌いだすというところに
彼がだいぶ明るさや朗らかさを取り戻したことを感じます。
これはかをりが変えたということ。
では、これから二人はどんな『きらきら星』へと変わっていくのか?
それは今後を追っていきましょう。

 

しかしこのシーン、コント的な演出を考え方ると、

 

「じゃぁかぁしぃわッ何時だと思っとんじゃ!!」

 

という近所のおっちゃんの怒鳴り声が飛んできて、

 

「そこの二人乗りー止まりなさいー」

 

というお巡りさんの声が聴こえてきそうですw

 

音が聴こえない、とは。

 

紘子さんが公生の音が聴こえなくなったことへ解釈をしていますね。

 

聴こえないことをどうこうするよりも、
それを利用してピアニストとしての自分を高める。
音が聴こえないことで、
物理的、肉体的な『聴覚』が与える音ではなく、
記憶や心象風景の音を優先してそれを演奏に表すことがしやすくなる。
それは誰にもできない、有馬公生というオンリーワンの演奏家を生むことに繋がる。
公生がかをりと出会い、改めてピアノに向き合うとき、
『変なピアニストになりたい』
と楽しそうに語ったが、これはそのためのこのうえない武器となるかもしれません。
音が聴こえなくなったことをネガティブに考えるのではなく、
自らを高めるための『贈り物』と解釈して活かす。 

 

快癒の方法が分からないなら
その障害に肯定的な理由付けをして前に進むことに利用し、促す。
それもひとつの向き合い方なのでしょう。
自己主張への迷いと怖れ。
自己主張することで悔いることへの怖れ。
そして音が聴こえないという障害と母への向き合い。
公生は一段ずつ階段を上って
かをりの示した『忘れられない風景』へと向かっています。 

 

公生は落ちたプールの底で水面の上から射す月光をみながら、
彼の心のなかで鳴る「愛の悲しみ」の音色を聴きます。

 

「もしかしたら、昏い海の底にも、光は指すのかもしれない」

 

音が聴こえないという心象の海の底。
でも、その音が聴こえない中にも『自身の内にある音』がある。
これが海底に水面から射す月光。

 

ここの解釈は当時は個人的に微妙でした。
椿役の佐倉綾音さんはここで公生が音を感じることを
『公生が音を取り戻した』
と仰っていました。

 

音を取り戻す……これについて以前は未熟な解釈で
失礼にも佐倉さんの考え方に否定的だったのですが、
今回の改稿で改めて考えなおしてみます。

 

この表現を改めて考えてまず思うのが、
物理的、肉体的な音の聴覚が戻った、というよりも、
公生が『精神的、心理的に』自分の音を拒絶していた、
だから自分の音が聴こえなくなっていたとうこと。

 

そもそも多くの人が序盤から考えておられたと思うのですが、
他の音は聴こえるのに、それに途中までは自分の弾くピアノの音は聴こえているのに、
途中から聴こえなくなる、
というのは肉体的な障害ではないのは明白です。
肉体的なら聴こえたり聴こえなかったりはしないでしょう。おそらく。
(いや、ある音程の連続やリズムのみ物理的に聴覚が働かない症状とか、実はあったりするのでしょうか?
とそれなら病院でということで、それは余談として)
これは、公生は自分にとって聴きたくない音を自ら、無意識で『精神的に消去していた』
と考えるのが自然ではないでしょうか。

 

少し表現を変えると、
公生の音が聴こえなくなる、という症状は無意識に
――なんらかの理由、例えば苦痛や辛さといった嫌なことなどから逃れるために必要で――
自分の音を否定したから起こったことだ、と言えると思います。
さらに考えると、
以前の聴こえなくなった時の公生の音は、
母が仕込んで譜面通りの音です。
それを彼が『精神的に消去』したということは、
公生は母のピアノを否定、拒絶したということになる、と。

 

母の幻影が言っていた『私の夢を拒絶した』とは、
むしろ公生のなかでは
『母の教えるピアノ、母に従っていた譜面通りの演奏(と音)』
の拒絶だったのではと改めて考えます。

 

本作の冒頭で描かれた少年公生が
母が亡くなったあとのコンクールの演奏途中で音が聴こえなくなった……、
これは、
母がもういないのに、酷いことをした母の指示通りのピアノを弾くことが公生は心の底ではい厭になり、
それから逃げる手段として
自分の音=母に従った譜面通りの音
を『精神的に消去』したのではないか?
母がいなくなってまで、母=母の教えたピアノに従うのは、つきあうのはもういやだ、と、
そう強く願う無意識が
自分の音=母に従った譜面通りの音を消去させて、聴こえなくなった。
これは、公生はこの時点で母に向き合うことをやめた、逃げたということかもしれません。

 

なんであんな鬼のような母親のために、
こんな譜面通りでみんなに嫌なことを言われるピアノを弾いていなくてはいけないのか?
もう母さんはいないのに……。

 

そう思って辛い現状から逃げるための手段が、母=自分の音を消去し、聴こえなくすること。
公生は母と、その母そのもののピアノと向き合うことから逃げるために
この症状を自らの精神で招いてしまったのだと考えられます。
それが公生の
『自分の弾いているピアノの音が聴こえなくなる』という症状のその真相ではないか?
と改めて考えました。

 

その公生は水中で意識がまどろむなか、自分が心の奥、深層心理に眠る音が思いだされた。
水中で公生は『自分のなかの音』が浮上してきた。
それは公生にとっては原初体験的な大切な音で、
こういう前後不覚の時に
自然と意識のなかにあることを確認できるような音だったと思います。

 

このシーンはとてもメタファーが利いていて、それらを読み解くと、
月が死相を表す、という解釈にのっとるなら、
月=もういない母、
母=「愛の悲しみ」
「愛の悲しみ」=心象風景、原初体験のピアノの音
音の聴こえない海底(この時は物理的にはプールの水中)=公生が『精神的に消去していた自らの音』の世界
公生のピアノの音=母に仕込まれた譜面通りの音

 

であり、
その月光、月からの『光』(母と「愛の悲しみ」)
が海の底(自分にとって辛い母の仕込んだ音を『精神的に消去』した世界)
の公生に射すことで
音の聴こえない公生の耳、ないし脳裏に「愛の悲しみ」の音が甦った、

 

というこのシーンは、
母=自分のピアノの音な公生は、これまで
母に従っていた譜面通りの音を『精神的に消去』していたが、
同じ母のもたらしたモノでも原初体験の「愛の悲しみ」の音が意識にあることに気づき、
(水中で危機であることを忘れるくらい)その心地よさ、温かさなど心安らぐことを感じた公生は
それが聴こえることを肯定した。受け入れた。

 

言いなりの譜面通りの音はこの時点ではまだ否定しているかもしれないが、
原初体験の音を大切なモノとして優先する形で
『精神的に消去』しながらも音が聴こえるようになった。
母の音を否定し拒絶して聴こえなくなっていたが、(モノによって)聴こえるようになった。

 

心のなか、心象風景のなかの自分の音を耳が聴くことを公生は自分に許し、
音を『精神的に消去していた』公生が自らの心に音を復活させた、
言い換えると、演奏時は途中からまったく聴こえないようになるくらいに
自ら封じていた『音を取り戻した』のだと改めて考えます。

 

佐倉さんがそこまで理解されたいたかは、
ラジオでの発言だったので時間内で語りつくされるわけにもいかず、
こちらには正確には分かりませんし、
もっとシンプルにお考えになられたとも考えられます。
なんにせよ、自分としての理解でも
こう考えるならばまさにその通りだったと今なら頷けます。
なのでだいぶ時間はかかりましたが、
佐倉綾音さん、その節は愚かなことを言って申し訳ありませんでした。
謹んでお詫び申し上げます。 
(これが考えすぎのまたしても誤解だったとしても構いません。
これもまた心の整理なのかもしれません)

 

そしてガラコン当日。
かをりが来ません。
何があったのか?
大事でなければよいのですが。
しかし演奏の出番は迫るので通りかかった藤和コンクールで優勝者だった
三池くんに順番を変わってくれないかと紘子さんが頼みます。
しかし三池くんはかをりの演奏に否定的で拒む。
加えてかをりへの批判もするので、公生は

 

「今日の主役の座は、僕らが貰います」

 

と宣言し舞台へ。
この辺にも自己主張への迷いと悔いの怖れを乗り越えた様子がうかがえます。 
かをり不在でひとり舞台に向かった公生。
伴奏者一人でやる気ですか?この舞台は一体どうなるのか!?

 

しかし2クールのエンディング絵が、
『黄昏に没する』みたいで不穏すぎます。
これは月刊マガジンの原作最終回、
かをりとハッピーエンド以外を覚悟しておいた方がよいのでしょうか、
という気にさせられます。

 

でもでも、カラフルな本作でビターなラストって、
それはありですか?どうなの?という不安でぐるぐるしながら
本作の結末が気になりすぎます!

 

ではまた次の君嘘の感想で。