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とーしろさんの趣味よもやま話の通用口。

「改めて考える黒猫チェルシーの幻影とは?『四月は君の嘘』第7話感想・改稿」

 

アニメ『四月は君の嘘』の第7話の感想の改稿文になります。
おつきあいくださると幸いです。

 

公生の長らく遠のいていたコンクールに向けての練習は続きます。
その公生の心象風景に現れ、公生の悩みを見抜き語りかける黒猫は、
彼が幼い頃に飼っていたチェルシーという黒猫の姿をしている。
本話で公生の昔話によって
この猫に関して公生は苦い経験があり、今なおこころの奥に後悔の象徴として居座っている、
ということがうかがえます。

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 ©新川直司講談社/「四月は君の嘘」製作委員会

 

 

 

公生にとっての猫はこんな感じにも見えるらしい。
この演出はほとんどホラーで怖いすが(笑)

 

と、冗談めかして語っていますが、
本作は過去になんらかの精神的な問題で
『自身のピアノの音だけが聴こえなくなる』
という症状を負って天才としての地位から退いたピアニストの物語です。
その公生が本作の課題のひとつとして再びピアノに向き合っていくということは、
その精神的な問題にメスを入れて、
正しく、もしくは彼なりに解決を辿っていかなければ
音を取り戻すことや、ピアノをまた弾いていくことはできないでしょう。
その観点でいうと、
今回から公生が過去の苦い経験について触れて、
過去の存在である黒猫が出てきたことは
公生の精神的問題へ踏み入り、潜っていく過程が始まったことを意味すると思います。

 

本作で描かれるであろう事柄には、
公生とかをりたちの関係性、
音楽への向き合い、
それに際して公生の過去についてとその問題についてなどがあり、
特に音が聴こえなくなる理由があるであろう過去の問題については重要な課題であり、
彼は何故、音が聴こえなくなったのか?
そしてその根っこには何があるのか?
を理解することで公生が再生するとしたらその納得にもつながるように思います。

 

これまでのステップとして、
公生が怖がっていたことはこれまでのかをりとのやり取りで描かれていました。

 

それは、舞台で弾けなくなるという大きなミスをして周りから冷ややかな目で見られ嗤われたことや、
演奏中に音が聴こえなくなる恐怖があります。
けれど、それはかをりの姿と言動に動かされて公生は乗り越えました。
怖いけれど飛び込んでみよう。
恐れず飛び込んだステージには、かをりが示した忘れられない光景が待っているから。
かをりによって公生はその瞬間に魅せられ、憧れ、かをりと同じそれを求めて
怖れを振り切って飛び込む心になりました。
怖れからモノトーンの影に隠れていたことから
光の射す場所に踏み出したことや、
土陵橋からの川ダイブはその表れですね。
だからコンクールにもぶつぶつ言いながらも練習して挑もうとしています。

 

では、次にピアノと向き合った公生に現れた猫の幻影。
これは公生の乗り越える課題として何を示しているのか?
7話でコンクールに向けて練習中の公生のなかに突然あらわれた
チェルシーの幻影は、どういうモノなのか?

 

そもそもチェルシー

 

公生のピアノにまつわるトラウマや、チェルシーへの後悔とは。

 

そもそも公園での昔話で
チェルシーに関して公生は後悔していることが語られています。
後悔の象徴(のひとつ)が黒猫だとして、
じゃあ公生の後悔というのは具体的にはなんでしょうか?
表面上の動きは
いたずらをして公生を傷つけた猫を母に捨てられることになり、
捨てられていくチェルシーを傍観して、
みすみす捨ててしまったことを後悔しているようです。

 

子猫ですから野良として捨てられたらその命が危険です。
そういう捨て方では本当はなかったかもしれませんが
(そのへん実際には母親がどうしたのかは描かれていません)
子供の公生にしてみるとチェルシーが外に放置されて
身の危険にさらされることを想像したのではないでしょうか。
黙ってみていたけど、あの時母をとめていたら、
チェルシーは生きていられたかもしれない……そう考えたとしたら、
公生が悔いていることも道理です。

けれど、猫に対してのそうした後悔だけだとしたら
ピアノに関する今に対してこの猫が迷いや悩みを代弁して
幻影として現れるているのはややおかしく映ります。
猫に対しての悔いはピアノとは繋がりはないはずです。
これは考えを変えると、直接ではないにしても、何かで繋がっているということなのでしょう。

 

この辺に、公生の音が聴こえなくなるという症状の元になっているトラウマ(心の傷)、
心の影、過去の悔いの実態、
その向き合いの本筋、
『本当はどういうことを悔いているのか(心の傷なのか)』がありそうです。
それをこの改稿では第7話の範囲内で改めて考えてみます。

 

公生の後悔の全容、それはアニメ7話の時点ではすべては描かれていません。
現段階では、母のために必死で練習してピアノで結果を出していたけれど
その母が亡くなったこと、
演奏の舞台の途中で音が聴こえなくなり弾けなくなった大きなミス、
楽譜を投げ捨てたこと、(これはどういう状況かはこの時点ではまだ分かりません)
そして今回の昔飼っていた猫に関することがあがります。

 

単純に考えると、公生の音が聴こえなくなったのは、
母を失った辛さからといえそうです。

 

けれど、この猫に関する昔話を注意深く考えると、
色々なことが見えてきます。
(この再稿に際してとそれまでで自分にも少しずつ見えてきました)
その先には、公生の後悔は猫と『母』とがピアノに結び付いていることが考えられてきます。
順を追って考えていきましょう。

 

まず、7話では母の幻影は出てこなかったので、
ここでは母の存在はいったんおいておいて、先に猫のチェルシーに関して考えます。
公生はチェルシーを捨てることをやめてと言えなかった。
これは公生が周囲の人の言う『母親の操り人形』のように母の言うがままに従って、
主張しなかったからと言えます。
公生は母の影に隠れて自己の気持ちや考えを主張しなかった。
これは、やはり母のレッスンに際しての苛烈さに対して、
幼い公生は我が母ながら『怖い』と感じてたいのが正味なところでしょう。
いや、あんな態度を母親にされて、
表立って口には出さなくても本音では怖いと思わないわけないじゃないですか!
その点を、公生は『病気の母のため』という理由、
優しい『嘘』で自分を納得させてその怖さをごまかしていたとも言えるかもです。

 

話を戻して、
公生にとって本当に猫のことで悔いているのは、
表面上の結果としては、子猫が生きられないことをしてしまった、ということですが、
その心のうちでは同時に、
それは自分がはっきりと自己主張しなかったせいだと、
自責、罪悪感という悔いがあるからだととれます。

 

(そう考えると、公生は本当は虐待的にレッスンをする母に
嫌だ、やめてという自己主張をしたかったのでしょうが、
病気の母を元気づけるために耐える、という『嘘』をついて自己主張しなかったと言えますが……
だったとしても、あとから母への怒りや怖いという印象が出てこないところをみると、
完全な嘘ではなく、母のためという意味も確かにあり、
猫の命で悔いているのも猫を思ってというそういう部分もあり、
公生がいかに優しい性格かが分かりますね)

 

次に、公生のピアノはコンクールで勝ち、結果を出すために、
母の叩き込んだ譜面の言うとおり、自分の感情を入れないで弾くというモノ。
『自己がない』『自己主張がない』技術だけのピアノ。
(かをりが練習に際して、君はこの曲をどう弾きたい?と問うたように、
自分というモノを表現することが演奏のひとつの大切さであり、
公生はその点で、幼少期に母の言うがままに自己主張しないピアノの弾き方をしていた)
そして『母』によって教えられ、従って技術を磨いてきたピアノは『母』そのもの。

 

考えをまとめてみると、

 

公生のピアノと母は同義であり、
公生は自己主張しないことでチェルシーはいなくなったことを悔いていて、
これまでの公生のピアノは『自己主張しない自分』を表す存在。

 

つまり、
今回はチェルシーに関して考えているので
一端、ピアノと母との繋がりに関しての言及を除いてチェルシーに関して焦点を合わせて考えると、
今のピアノのコンクールへの練習をしている公生の心にチェルシーの姿をした幻影が表れるのは、
彼のピアノが今、自己を表現するということに取り組み、『自己主張の問題』に直面しているから。

 

そこからもう少し踏み込んで考えます。
ピアノとチェルシーに関して、公生は母の影に隠れて自己主張をしなかった。
それは母の怒りを買うという『怖れ』があったからだし、
譜面通りに弾くことで結果を出せるので保守的に譜面に忠実に、
自己主張は危険という『怖れ』があった。
公生のなかで、母を起点に
ピアノと猫のチェルシーの存在が『自己主張のなさ』と『自己主張への怖れ』
で(ほぼ)同義として結びついている。

 

チェルシー≒『自己主張のなさ』と『自己主張への怖れ』≒(母に仕込まれた)ピアノ

 

公生が今、ピアノで自己主張をしようとすると、
同じピアノのことだから否が応でも
『自己主張のなさ』と『自己主張への怖れ』という過去のダメだった自分の影がちらついてくる。
その『自己主張のなさ』と『自己主張への怖れ』はチェルシーを見捨てることをしてしまった過去の公生と同じ。
過去のピアノを否定するうえで、
過去の『自己主張のなさ』と『自己主張への怖れ』の自分とへ向き合わなくてはならない。
彼にとっての『ピアノに改めて向き合う』、とはそういうことでもある。
このチェルシーの幻影は、まず、
公生が過去の自分の在り方(『自己主張のなさ』と『自己主張への怖れ』で主張しなかったこと)
と向き合っていることの象徴と言えると思います。

 

更に追及すると、
ここでこれまでの『自己主張のなさ』と『自己主張への怖れ』のピアノを否定して
今の公生が望む自己主張、ピアノで自己を表現しようとするとすると、
過去のピアノ(『自己主張のなさ』と『自己主張への怖れ』)とチェルシーが出てくるのは、
まだ公生が自己主張するピアノと、
コンクールで勝つための自己主張しないピアノの間で迷って揺れているからだと思います。

 

自己主張をしようと練習する今の公生の心のなかにも
母によって体と心の奥まで染みつけられた『自己主張のなさ』と『自己主張への怖れ』がちらつき、
コンクールで勝つためには母の仕込んだ、自己主張しない譜面通りの演奏の方が良いのではないか?
という不安と迷いが生じてくる。

 

ところで、なぜ同じ公生の過去の悔いのもとである『自己主張のなさ』と『自己主張への怖れ』
の幻影は、現時点では猫だけなのか?
同じように母についても『自己主張のなさ』と『自己主張への怖れ』から悔いがあるのではないか?
それとも少し違うのか?
ここについて考えると、まず、
ピアノに向き合うことに決めたのは、
かをりのような自由と自己を表現した結果の忘れられない光景に憧れたから。
しかし、公生にとってピアノで自己を表現、自己主張をしようと試みると、
母とチェルシーの記憶が甦る。自己主張しなかった後悔で彼女たちの記憶が疼く。

 

そこでふたつが同時に来ないのは、これは母への悔いが別のかたちだから、
と考えた場合、
母に対して自己主張をしなかったことを悔いているのか、
それとも言うべきではないことを言ってしまった、という意味での
自己主張の悔いなのか?……と想像することができます。

 

そう考えると、今の段階でチェルシーの姿だけが出てくるのは、
自己主張するかどうかでまだ迷いと怖れ、不安があるからだというのが更に確かに感じられます。
自己主張することで手痛い思いをしたから、
今はかをりに憧れて自己主張することを望むけど、
過去のミスを考慮したらしない方が良いのではないか?
と心は不安で迷って揺れている。
コンクールで演奏するなら結果は欲しい、
そのためには自己主張しない譜面通りがベスト。
けれど、公生が再びピアノと向き合う理由であり、本当に求めるのは
憧れずにはいられないかをりのような自己を表現した(自己主張した)ピアノ。

 

ここをシーソーのようにぎっこんばったん、ふらふらと行ったり来たりなのかもしれません。
チェルシーの幻影はつまり、
単純な悔いの象徴なだけではなく、この時点では
『自己主張への怖れ』と『迷い』の象徴なのだと、ここで改めて考えます。
だから心象風景のなかでチェルシーの幻影は、
公生の迷いを確認し、それ(自己主張。劇中ではそれを恥をかいてもいい『旅』と詩的に表現している)
をやる心構えはできたかを確認するわけですね。

 

それについて公生は、
答えは明確に導けていませんから、
だからコンクールでの演奏は序盤、ああなったとも解釈できます。
……まあ、それはその話数の感想で改めて。

 

この時点のチェルシーの幻影に対しての自分なりの回答がでたので、
話を7話の内容にします。

 

第7話のエピソード内容

 

チェルシーの幻影が出たのはかをりの自己を自由に表現する姿に憧れ、
その彼女の指導で『自己を表現する』ことの練習最中。
そりゃ、これまで自己主張してこなかった公生ですので、
それをやった結果、失敗したり他人に否定されて後悔するのは怖くて当然。
いや、公生のような立場じゃなくても、
当たり前にそれは怖い。
けれど、かをりの姿に突き動かされて公生は
これまでの自分の限界であった『譜面通りの演奏』から脱し先に進もうと努力します。
その先にかをりと実現した忘れられない光景があることを、
星のように標にして。
公生の自己主張の道は後悔と希望で裏表――影と光のようにつながっているのかもしれません。

 

かをりとの帰り道。
『母さん』と猫についての昔話をします。

 

『ピアノ』は、
母によって与えられ、彼女によって作られたモノ。

 

公生は今再びピアノを弾くことを選びはしたものの、
ピアノはどうしたって『母さん』の影を感じる。
自分がピアノを弾くのは自分が母の影にいるからではないのか?
自分の意思や意義を信じきれない公生。
この辺は、自信のなさがうかがえます。

 

そんな公生にかをりがかける言葉が良い。
誰の影響があっても、
結局は自分は自分。
そういう意味だと思います。
人はどれだけ真似ても、どれだけ存在が強い人がいても、
つまるところ自分は自分なのだとかをりちゃんが教えてくれたようです。

 

そんな自分で精一杯やればいい。
そういって手の平を合わせるかをちゃんがもう、
ああもう、このシーンが最高すぎます。
公生でなくても「ほっ!?」ですよね。
 

ピアノが弾きたいって、うずうずしている。

 

手の平を見れば公生がどれだけピアノに時間を傾けてきたかは
同じ演奏者としては瞭然。
それは、自己表現する演奏を目指して練習してきたことも同じで、
これだけがんばった手だもん、
その結果を試したくて、演奏したくてうずうずしていて当然です。 

 

公生がチェルシーと対峙して悩んで、迷っていたこと、
その答えはとてもとてもシンプル。
公生は演奏家で、弾きたい。演奏したい。
 

まるでかをりが
その気持ちのままに弾けばいいよ。
それが何かにつながるよ。
音楽にはきっとそういう力があるから。
と言ってくれているような、
そんな想いを公生は感じてコンクールの日を迎えのかな……
などと想像してしまいます。
 

 

コンクール当日。

 

かをりが贈ったエールは、
公生のエントリー番号がモーツアルトの『キラキラ星』
のケッヘル番号と符合しているということ。

 

『ケッヘル番号』とは、
モーツァルトの曲に年代順につけられた番号だそうです。
(単行本3巻、第11話参照)

 

笑顔で戦場に乗り込む公生。
その公生を奴らが向かい受けます。

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  ©新川直司講談社/「四月は君の嘘」製作委員会 

 

 

相座武士。井川絵見。

 

幼少期から公生をライバル視してきた二人のピアニスト。
緊張の再会……のはずが公生は

 

「どちらさまでしたっけ」

 

怒り心頭の武士。
静かに怒りに燃える絵見のクマスタンドがきゅーとでぇす。

 

順番待ち中に武士が緊張で吐いている姿には、
コンクールの魔性を感じざるを得ません。

 

一見して豪気な武士でさえここまで己を追い込み、
奮い立たねばならないステージ。
歯を喰いしばってあがる舞台……。

 

これが自身の技量と精神と魂と、血反吐を吐く練習をぶつけて挑み、
ほんのひとつまみの人間がその道を切り開く世界と、そこで戦う者たちのスガタ。

 

それでも己を奮い立たせ、勇気をもって毅然と進み、
相座武士の演奏がやってきた!
彼を突き動かす何かのために。

 

……次回へ続く。

 

公生は当然ですが、
武士と絵見の二人の演奏がどうなるかも楽しみですね。

 

では次のエピソードの感想で。