1046ワークス24口

とーしろさんの趣味よもやま話の通用口。

Twitterのつぶやき《創作編》

『今は割とカオスですな。

腰痛を気にしながら、物書きとしてひとつ壁っぽいのに挑んでいる。

勉強をしたいと焦る欲と、と身体的限界時間の折り合いで、

でもアニメも視たい、本も読みたい。

ぬおおおおおっ仕事が邪魔だあああああっ←おい』

 

5月10日のツイート。

当然なにをぼやいているのかという、TL汚しも甚だしいカンジではあったのですが、

興が乗ったのかこの後1時間以上、創作に関する自分の現在の悩み事をつぶやきまくりました。

 

この記事は、何を血迷ったかその一部始終のTLの様子を転載してみました。

問題なくすべて自分のツイートです。

小説を書くうえでこういうことも考えている人がいるのだな、

くらいで読んで頂けると、意味があるような、ないような。

いえ、このTLのシメ方の通り、一応の自分の中での意味はあったのですが。

ともあれ。

 

 

『「小説」と「物語」って、もとは区別されていたそうだけれど、

現代的にはそれは意識するモノなのでしょうか?

というか、創作クラスタの皆さんも、プロとして書かれている方たちも、

書いているモノを「小説」と意識しているのでしょうか?

だとしたら広義でなくとも「小説」の定義とは。

 

 

自分はこれまで「小説を書く」という自己認識の元に書いていたけれど、

最近(要素に係る文脈)や(設定の必然性)などの作法が大切ということを、読み取る読書をしまして。

そういう点を押さえた文章を書こうと意識し始めた訳です。(遅い気付きですが)

 

 

だから過去作は、どちらかという「物語」的な作品だったという見解。(読み味もそういうカンジで)

だから自分の書いたものを大切にするという意味で、

「小説」と「物語」の区別があるとしたら、「物語」は現代的にどう取られるのか?

そこをフォローしたい座りの悪さを抱いている最近です。ご意見求む。

 

 

自分のこれまで書いたものが

「これは小説ではない」という意見が出るとしたらもっともだと思うけれど

(別に言われていないですが)

「小説」と「物語」を区別する意義や価値も知りたいです。

自分の中では「小説」的作り方を肯定しています。意見求む。

 

 

作法に拘泥しないで書いたモノが、小説の作法を押さえている人にはあまりどうで

もよい悩みかもしれないのは、まあ判るくらいの余裕はありますが。

そこにこだわる個人的な必要性を感じているうえでの悩みです。意見求む。

 

 

「小説」的書き方を重んじている人間が書いたかどうかは、

その著作を読めばわかる訳で、それを重んじる感性も分かるのですよね。

ただ自分は、その書き方を「物語」的書き方と明確に区別しているのか?

区別するならば、その意義を参考に聞かせて頂きたい。意見求む。

 

 

ちなみに

「小説」と「物語」の区別の簡潔な解説は

「小説・近代的小説の定義」⇒http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E8%AA%AC 』

 

 

ちなみにこの時点までは、TL上での意見交換を目論んでいたのですが、

もしかしてというか、自分のこのテーマに意見を持っているフォロワーさん等はそのときいなかったらしく、

孤独にして孤高の思考が続いていきます。

 

少々見るに堪えない。

 

 

『「物語」系の代表作も調べてみますか。

 

 

ざっとして目に付く印象だと、

「小説」と「物語」を作法的に区別している人は、もしかして少数派?

もしくはいわゆる小説作法厨という方達でしょうか?

「なろう」で小説の書き方としての物語性、というのも見つけましたし。

 

 

でもその人はあまり文字数を投稿していないです。

書いていないから意識が薄いという見方も出来ますし、

この人の作品にも目を通してみるべきか。

 

 

ううん。

自分のこれまでの作品が「小説」的作法から逸れているという事自体が嫌、

なのではなく、

自分の書いたモノを無暗に貶める気が無いから、

「物語」的、もしくは「小説」定義から逸れても「価値がないことはない」

という言い訳が欲しいだけなのかな~。

 

 

「小説」の作法を重んじる書き方を採っていくなら、

むしろ反面的な位置づけにしたら楽ではあるのだろうけれど、

自虐趣味はないのですよね。

むしろ自分肯定ポジティブマインド。

 

 

「小説」の作法的定義が分かったのはいいのだけれど。

まあ、別に自分が「物語」よりの話を書いていたということで迷いがあるわけでもなく。

「小説」よりの書き方をしていくうえでの、過去作の在り方に気が回ったという。

 

 

ならそれを含めた技法的書き方をしてけばいいか。

過去作も活きるような。

過去作を無駄にしない作品内容を、これからの作品に書いていけばいいか。

いま尊重し始めた作法にのっとって。

 

 

ううむ。遠回りする獅士りん。

しろうと臭さ滾っています。

 

 

でもちょとすっきり。

わだかまっているモノと向き合っているときって、めんどくさいものだね。

自分の目から見ても、人の目から見ても。』

 

 

というあれで、どうにかお悩みに着地点を見出すことができたという。

しかしこの間、1時間28分(twilog参照)も淡々とつぶやいており、

一体フォロワーの皆様はどういう印象を持っておられたのかが心配です(笑)

 

 

そして、シメ。

 

 

『問題は会話劇の楽しさ、おちゃらけ具合を前面に出し過ぎて、その所為で作法完

 

全無視で話1/3ほどの「ディアトリ」の収集のつけ方ですな。

 

 

華麗なる序盤の回収を御期待!!!

と自分に発破をかけてみる。』

 

 

ということで執筆に励みます~。

 

 

小説家になろう」サイト掲載

 

小生 刀史郎 著

「ディアトリニティ・ディアフレンズ」

http://ncode.syosetu.com/n4326bv/

 

 

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