1046ワークス24口

とーしろさんの趣味よもやま話の通用口。

「その意味の納得。届くといいな。『四月は君の嘘』最終回「春風」視聴感想」

四月は85

 ©新川直司講談社/「四月は君の嘘」製作委員会

 

※ネタバレ注意。

 

物語の大きなネタバレが書かれていますので、

君嘘最終話をご覧になっていない方は、ご注意ください。

 

 

君嘘最終回を迎えた結果、

自分が何よりもまず言うべき事は、

原作者・新川先生への謝罪であります。

 

以前、18話の感想記事での一文で、

新川先生のかをりの描き方から、

 

「新川先生って、弩Sのゲドーですね」

 

ということを、とーしろさんは言ってしまいました。

 

それは当時の偽りない素直な感覚であり、また

色々と学びだすことの多い君嘘における、

楽しんでいる作品における、

唯一の不満の発露でもありました。

 

かをちゃんを殺さないで!

という抑えようのない悲痛な叫びでもあり申した。

 

しかし、最終回を読んで、視て、

そしてそれまでの感想と考察の集積として、

とーしろさんも考え至りました。

 

この作品というモノに。

 

だからこそ今、

先の暴言について、

ここに深くお詫び申し上げたいと思います。

 

まず、それがどういうこころであるかを語る前に、

前提として、この感想記事に目を通している方は、

君嘘アニメ最終話を視聴済みであり、

この物語の大きな結末のひとつである、

 

宮園かをりの死

 

を周知の事として書いていきます。

よろしくお願い致します。

 

四月は87

 ©新川直司講談社/「四月は君の嘘」製作委員会

 

……で、何故その新川先生に向けた、

あの時点での評価ともいうべき、

ともすれば作家への『悪印象』を、

とーしろさんは取り下げる気になったのかという話ですね。

 

それは、当ブログの君嘘感想を読み

お付き合いくださって来た方は御存知かもしれませんが、

とーしろさんは作中で、

かをりがどんどん病魔に浸食されていく進行を視ていて、

君嘘が……というか、かをりちゃんが悲劇的な結末になるのを、

大変嫌がって、ポジティブで明るい幕引きになることを

望んでいるということを書いてきたのです。

 

(それはとーしろさんに限らず、

かをちゃんに魅せられた視聴者には、

多く普遍的に、当たり前の気持であったと思います)

 

しかしです。

 

この感想記事

 

……というか、途中から感想というよりも、

君嘘登場人物の心情考察という、

とーしろさんの『理解と納得の為の記述』になっていますが……

 

を書いているうちに、アニメも終盤に差しかかるにつれて、

作品の『創作的な意味』や『物語上の必然性』に理解が及んできたのです。

 

つまり、簡潔に述べるならば、

とーしろさんは

かをりの死について、理解し、納得しています。

 

そうして、最終回を視聴し終えて、

この結末を受け入れることが出来ました。

 

それとともに、この『必然』を形作り、描き切った

新川先生の手腕と筆力に、大いなる尊意を抱きました。

 

ここまで君嘘をご覧になった方には

当然の事のように分かることと思いますが、

あれだけ鮮烈でカラフルな魅力的なヒロイン、

宮園かをりを、

殺してしまう、死なせてしまうことへの

読者、視聴者の反感と批判。

そしてどうしようもなく溢れる哀しみ。

 

それらを理解しながらも、

作品のために必要なことであったからと、

果断に『道を極める』『鬼の通る道』を歩むが如く、

描き切った、この新川先生の行為。

 

まさしく生みの苦しみに耐えた足跡。

 

そして、身を切る思いでの創作の証。

 

新川先生の勇気と度胸、

そして作家としての鋭利さに、

尊意を表さずにはいられない……!

 

だからこそ、

作中の人物に対する仕打ちに心痛めたとはいえ、

安易に『ゲドー』呼ばわりしたことを、謝りたいのです。

 

新川先生、ゴメンなさい。<(_ _)>

 

 

しかし、今書いたことは、何この人ひとりで納得してんの?

みたいだと思うので、その辺の

『かをりが逝ったこと』への考察、

創作的な必然性について、少し書きたいと思います。

 

しかし、これはとーしろさんの得た納得であり、

必ずしも今これを読んでいるあなたの

琴線に触れるかどうかは定かではありません。

 

しかし、君嘘を読み解き、

かをりの死を肯定的に捉える一助になれば幸いです。

 

四月は84

 ©新川直司講談社/「四月は君の嘘」製作委員会

 

まず、そうなんだよな。

かをりの生き様がどこまでもカラフルであり、

公生にとっても、読者・視聴者にとっても鮮烈であればあるほど、

宮園かをりという存在が、彼女を見た人達に克明に刻まれて、

その死の後も忘れられないように心に残るんだよな。

 

公生の内にも、とーしろさんの内にも、

今この文章を読んでいる皆さんの内にも。

 

それでこそ公生にとっても、作品にとっても、

自分達にとっても意味があるのだと思います。

そのありありと生き続けるモノこそが、

宮園かをりというカラフルだった少女のありったけの生命の意味。

 

かをりが逝ったことは、哀しい。

正直、原作最終話の発売前1週間のそわそわしっぱなしっぷりは

ハンパなかったです(歳を弁えろ)

 

けれど、その命の遺したモノを何度でも噛みしめる為にも、

彼女の死以上に、彼女の生が紡ぎ顕わした言葉と想いを

公生同様に噛みしめ、強く自分の生を歩んでいくためにも、

 

かをりの死を受け入れ、別れを告げなければいけない。

 

納得して、前へ進まなければならない。

 

納得とは、この場合なにかと言えば、

『かをりのいのちの意味が何であったか』

を知ることかもしれません。

 

作品としても、それは十分に描かれていることで、

だからこそ、とーしろさんも読み解き、

理解と納得に至ることが出来ました。

 

彼女はただ病魔に犯され、哀しく死んで逝った

……訳ではない。だけではない。

彼女の生きた意味と、そのカラフルさが成したことを

噛みしめることが肝要です。

 

四月は83

 ©新川直司講談社/「四月は君の嘘」製作委員会

 

いちご同盟

について、御存知でしょうか。

 

君嘘劇中でも出てきた小説で、

セリフを引用されたりと、

大きな意味を持ちますが、

実はそれだけの存在ではありません。

 

とーしろさんも読んで知ったのですが、

まだ読んでいない人は、

是非お手に取って読み切ってみてください。

 

この作品は、

実は君嘘の“雛型”になっていると言える作品なのです。

だからこそ、

君嘘で描かれている様々なモノを読み解く

足掛かりと手助けになります。

 

そこで、かをりの死について。

 

実は、『いちご同盟』でも、ヒロインの直美が最後、

同様に亡くなります。

(ネタバレ失礼!)

 

そして、消えていった命が“遺したモノ”を、

『忘れないで憶えている』

ことが、『いちご同盟』の主人公の良一に

大きな意味を与えます。

 

君嘘ではそれが、同様に公生にとっての

大きな意味を持つことなんです。

そして彼にとって必要なことでもあります。

 

四月は86

 ©新川直司講談社/「四月は君の嘘」製作委員会

 

このヒロインが主人公に与える意味合いは、

仮定として、もし彼女たちが生き残っていたとしたら、

良一にとっての直美の意味と重み、

公生にとってのかをりという存在が成したことと、

公生の内にいるかをりというモノの意味と大きさが、

揺らぐ事になる事態を招きかねない。

 

それは厳しくも寂しいことを言っているように聞こえるかもしれません。

酷いことを述べているようにも取られるかもしれません。

 

しかし、かをりが愛すべきキャラであることも、

当然に尊重したいのですが、

とーしろさんもその気持ちがいっぱいですが、

前回の感想記事で書いたように、

この作品は、公生の物語です。

 

公生が、自分の周りにいる人達の支えに気付いて、応えて、

自分の力で立って、

ピアニストという生き方を獲得するまでの物語です。

 

必要なのは、肝心なのは、

 

これまでの物語の出来事を通して、

公生がいかに自分の力と意思でピアノを弾いていくかを、

自分の心で得ることであり、

かをりの死後も、彼女から得たモノ、彼女が遺したモノを

胸に抱き、ピアニストとしてやり続けて行くか、

 

であるのです。

 

だからこそ、かをりの死は、作品にとって必然だった。

公生のために。

 

もしかをりの病気が完治して、この後も元気にずっと生きている

ということがあったとしたら、

その後の公生とかをりの関係の変化いかんでは、

彼女が与えたモノが意味をなくしたり、

霞んでしまったり、

変わってしまったりするかもしれない場合も考えられる。

 

かをりが生き続ける事は、

確かに公生にとっても幸せなことになっていただろう。

けれど、彼女が生きていることで、公生の心は

もしかしたらまた違った風に変わっていったかもしれない、

ということです。

 

公生にとってのピアノと、ピアノへの向き合い方、

弾き方が違うモノになってしまい、

結果としてピアノを弾き続けることを止めてしまう、

という線も在り得るのだということ。

 

それはつまり、2年前に公生が母の死をきっかけに

ピアノから離れたことから、

かをりがヴァイオリンを始めて、

 

『公生にまたピアノを弾いて欲しい』

 

という願いから、かけ離れていくことに他ならない。

 

それでは、公生がかをりから受けた影響は

一過性の気紛れといえるモノに過ぎなかった、

ということになりかねず、

それでは尚更、二人の出逢いという物語の動きが

色褪せてしまいます。

 

(あの人との時間のお蔭で、

一時は音楽に昂ぶりや豊かな情感を感じたけれど、

僕は多くの人たちに見守られ支えられ、

ピアノを弾こうと思ったけれど、

……それも過ぎた事だ)

 

と、その後のかをりや様々な人との関わりで、

そんな風に公生がスレた成長を遂げないとは、

100%言い切れない(苦笑)

 

それでは、1話の四月の出逢いから、

公生がカラフルに触れて、変わって行き、

2月のコンクールの舞台で得るに至った

“気付き”、

 

公生が自分の意思で、自分の力で

「弾くんだ」

と思えたことが霧散し、

ピアノを続けていかないかもしれない。

 

それでは、この作品の意味が果たされないし、

君嘘を視てカラフルなかをりたちに魅せられたことも、

結実しないではないですか。

 

君嘘は、かをり亡き後も公生が、

自分の力で立って、自分の気持ちとして

ピアノを弾き続けて行くことこそが、本当です。

 

かつて最愛の人の死で断ったモノを、

今度は同じ経験で失くさずにいられる……

そういう成長を公生が果たす。

 

なんにしろ結局、ピアノから離れるという物語なら、

最初から早希さんが亡くなった時点で、

話は仕舞っているんですよ。

 

一度やめたモノを、また同じ経験でやめていく、

という寂しくただただ哀しい物語。

もし君嘘がそういう話だったら?

 

それでは本作を生み出す必要すらなかった。

そんな無駄に哀しいだけのモノを、

少年漫画でわざわざ連載で描くことはないのです。

 

多くの読者・視聴者は、

どこかでカタルシスを求める部分はあっても、

どん底に居続ける人間を視ていて何が満たされるのか、

というカンジですよね。

 

どん底からの救いのようなモノがあるスガタにこそ、

人は喜びを感じるのですし、

少年漫画は尚更そういうモノを描くことをして欲しいと、

そう思います。

 

だから、公生はピアノを弾き続けて行く、

という『成長』としての希望あるラストに帰結し、

その為には、どうしてもかをりの死が必要だったんです。

 

そう考えられてなりません。

 

また少し話を逸らすと、

成長はしても、切なさがあるよ、というのが

君嘘の魅力にもなるんですよね。

 

こうした理屈で、だからこそ、

君嘘はかをりが退場することが、

避けようのない必然であって、

それでこそ公生と君嘘の体現するモノの意義が

しっかりと完成する。

 

君嘘を視て来た人には繰り返しになりますが、

“体現するモノ”とは、

 

かをりのセリフにあった、

 

「悲しくても ボロボロでも どん底にいても

弾かなきゃ駄目なの

そうやって私達は生きていく人種なの」

 

に集約されています。

 

公生がそれを獲得する物語です。

それに加えて、心の内に残る恋した女の子や、

誰かへの想いを込めて演奏する事、

自分の周囲の支えてくれる人たちへの気付きと、

その感謝から来る応えようとする意思。

 

それらを作品すべてを通して公生が経験し、

学びとった末に、

ピアノを弾いていこうと思える。

 

それが『四月は君の嘘』という作品なんだということです。

そう理解しました。

 

これはアニメ第1話のラストでは変更されていましたが、

原作第1話のラストの公生のモノローグに

象徴するように、既に秘められて描かれています。

 

「14歳の春、僕は、

自分の足で走り始める」

 

 

 

また、公生は21話で辛くてどん底の中にあっても、

それでも演奏をし、

そこで悟諾を得られたことで、

これからもピアノを弾き続けられる力を得た、

と解釈出来ますが、

 

ここに至るまでにかをりと居た時間があったからこそ、

音楽に血の滾りを感じたり、

誰かの為に弾くことの大切さを学んだり、

演奏が言葉を超えて伝わる、忘れられない光景を知り、

公生はピアノを弾くことを望んだ。

 

そのかをりは、同時に公生をどん底に叩きおとす

引き金にもなった訳で、

 

公生にとって、かをりという存在が

いかに大きな役割を果たしたかも、

公生がピアノという生き方を獲得する

重要な根拠なのです。

 

だから、かをりちゃんのいのちの意味は、

否応なく絶大な大きさを誇り、

だからこそ、

その命が使われ、成したことを慮れば、

彼女の死に憤ろしさと悲哀ばかりを感じてもいられない。

 

ですから、とーしろさんはかをりちゃんが逝ったことは

確かに、とてもとても哀しいけれど、

公生にとっても、作品にとっても必要な事だったと納得し、

その生の意味を噛み締め、胸に抱き、

この作品を肯定します。

 

かをりなくして公生の成長なし。

彼女の命は大きな役割を果たし、

皆のこころに忘れられることなく生き続ける。

だからこその、肯定。

 

四月は95

 ©新川直司講談社/「四月は君の嘘」製作委員会

 

この一連の『かをりの死の肯定論』を、

理屈にかたよって、

視聴者の感情として理解していない、

共感できない、

というご意見もあると思います。

 

でも人の死というのは(それが二次元であっても)

時間が癒して解決してくれるとはいっても、

どこかで、自分の気持ちを整理することをしないと、

心の内にわだかまり続けるんですよ。

 

だから、頭と心で、自分が心を割く存在の死の――

その理由を解きほぐして、

喪失の必然性を納得する行為は必要です。

 

これにはこれだけの意味がある。

これはこういうことだったんだ、

と思う作業です。

 

大概、自分も感情的です。

ウェットうしろうです。

 

そうして前に進むことが、生には必要で、

けれどそれは、

「大切な人を忘れる」ことでは決してないのですよね。

 

とーしろさんだって、かをちゃんが亡くなるは哀しいし、

嫌なんだよぉぉぉおおおおおおっ~~~!!!

ウワ──(゚´Д`゚)──ン。゚(゚´д`゚)゚。ウェーン ・゚

 

それでも、納得できないと不満を漏らしていても、

どうにも荒んだままで何にもならないじゃないですか!

 

それよりも、かをりちゃんの生きた意味をよくよく受け入れて、

「僕のなかに、君がいるよ」

的な考え方をするほうが良かろうなのです←ちょっちキモい

 

だから、とーしろさんもかをちゃんを忘れないです。

その死を……命が尽きたことを納得して、

これからの歩みの一部として生きたいです。

公生がそうであるように。

 

とーしろさんもこの作品を最後まで読み、視聴して、

そうした気持ちに至ることが出来ました。

 

そうなれたのは、他でもないかをりのお蔭。

彼女のいのちが遺したモノのお蔭です。

 

あなたはいかがですか?

 

 

 

 

ところで、「オレンジ」の歌詞にもある、

“かをりが遺したモノ”とは?

 

四月は96

 ©新川直司講談社/「四月は君の嘘」製作委員会

 

カラフルな世界もある。

誰かを想って

想いを載せて演奏をすることや、

ピアノを弾く意味もある。

 

母との決別や、

恋を知ること、

自らの気持ちとしてピアノを弾くことでもある。

それらは同時に、公生が自ら気付き得たことでもあるのですが。

 

愛を失う悲しみを乗り越える強さ。

そして、大切な人が居なくなっても、

心の内に在り続ける確かな愛でもあるでしょう。

 

単純にトラウマにはならない。

 

かをりの死は、公生にとって

心に棘が刺さるような

……けれどくっきりとした陰影を表わすような傷痕を残す……

確かにそれは、思い出すことで疼くような痛みを感じさせる、

そういう経験となったことでしょう。

 

けれど、心にあるのは、

痛みばかりではないのも、また確かで。

 

「七色シンフォニー」の2番にあるように、

公生はかをりがくれた喜びも、切なさも抱いて

自らの意思で自らの生を進んでいく。

 

かをりという存在は、

彼女の生は、

公生にそう思わせることが出来た。

 

また、

君嘘の雛型となったと言える『いちご同盟』。

 

その結末として、

自殺の観念を抱いていた主人公の良一が、

 

「生きろよ」という友人の言葉に

「ああ、生きるよ」

 

と答えたように。

 

これこそが、

宮園かをりの遺した最大のモノだと思います。

 

生きることは、どこか哀しみがつきまとう。

 

けれど、哀しくても、辛くても、

それでも生きていく。

 

主人公の心にそう思わせたことが、

いちご同盟』と『四月は君の嘘』の

直美とかをりというヒロインの成した

最大の成果であるという訳です。

 

だからこそ、彼女たちの死が受け入れられる。

 

ただ哀しみに彩られただけのモノではなく、

それがどこまでも尊いと、

純粋に理解し、納得できるから。

 

とーしろさんも、

しっかりとかをりに

 

「さよなら」

 

を言えそうです。

 

哀しさと切なさはあるけれど。

 

これまで滔々と自分がかをりの死を納得できる理由を

書いてきたみたいですが、

では、公生はどうなのだろう?

 

公生もそんな風に解釈して、

かをりが逝ったことを受け入れたからこその

「さよなら」

だったのでしょうか、

と思われるかもしれませ。

 

あの「さよなら」の意味は、正直なところ

簡単には解釈できません。

現時点の自分には、

それらしいことはいえても、

心から納得のいく答えは出ていません。

 

演奏の集中領域にあって、

かをりのスガタを捉えて、

彼女が発光となって消えていく様を目にした公生が、

何を感じ得たのか。

 

どうにか

それは、ある種の鋭敏になった神経がそうさせた

予感や直感かもしれません。

 

そうしたモノが、かをりの身の危篤を公生に感じさせた、

の、かもしれません。

 

あまり理屈的な解釈には至っておりません。

 

けれど、コンクール以後にかをりの死を知って、

それから桜咲き乱れる春まで時間が経過して、

そのうえで彼女の手紙を読もうと公生が思えたのは、

 

きっと、自分が述べたような

死の肯定と、受け入れを、

公生が出来たからなんだと、

それは思えます。

 

だからこそ、

お礼を言いたくなっていたのですよね、公生は。

 

大人になる筈ですね。

紘子さんも、凪もうっとりで、小春ちゃんもうきうきです。

 

公生は、成長した。

 

 

 

 

四月は92

 ©新川直司講談社/「四月は君の嘘」製作委員会

 

最後に、

君嘘の表題の意味についても少し。

 

四月に吐いた嘘は、

こうして

生命と意思の強さの獲得、

『精神的な生きる力』という

『もっとも美しいモノ』を生み出すことになった。

 

かをりの吐いた嘘は、

だからこそ『もっとも美しい嘘』だ。

 

(他にも自分の命の期限を使ったから、

想い人を立ち直らせるための嘘だったから、

など嘘をついたシーンの意義によって、

解釈は広がります。)

 

そして、ラストの手紙でかをりの吐いた嘘の

背景を知ることで、公生は

 

かをりの想いと、ユメと命の温かな重みを胸に刻み、

それにも応える意味でも

ピアノを弾いていこうと思えている筈なんですね。

 

この嘘がなければ、

四月からのカラフルも、

意味と答えとの獲得も、

公生にも、自分にも在り得なかったでしょう。

 

だからこそ、

踏み出し、走り出したかをりの、

その『勇気』と『情熱』、

自らの命を使い切ってまで果たした『信念』に

最大の尊意を以って、

感謝の言葉を述べたい。

 

四月は94

 ©新川直司講談社/「四月は君の嘘」製作委員会

 

かをりちゃん、ありがとう。

 

 

では、また同時に、

 

どこまでも情感深く、味わい深く、奥深い、

自分にとっては忌憚なく、10年に1度もない、

そんな感動を与えてくださった、

素晴らしい物語を生み出してくださった

新川直司先生に大いなる感謝と、万感を以って

ここに書き記しておきます。

 

四月は君の嘘』と出逢えて良かったです!

 

この作品を読み解くことで学びとったモノを、

しっかり活かして自分も歩んでいきます!

 

新川先生、

マンガからアニメに至るまで

制作に携わったあやねるやイシグロ監督達多くの皆さま、

本当に本当に、本当~~~ッに!ありがとうございました!

 

ありがと……ごぢぇ……ます(ぼろ泣き)

 

君嘘、大好き!!!!!!!!ヽ(*´∀`)八(´∀`*)ノイエーイ

 

四月は100-2

 ©新川直司講談社/「四月は君の嘘」製作委員会

 

 

 

 

 

 

p.s もう1回記事を使い、君嘘の細かい設定や

伏線に関する考察を述べたいと思っております。

興味ありましたら、お楽しみにお待ちくださいまし~♪