1046ワークス24口

とーしろさんの趣味よもやま話の通用口。

「万人が楽しめる小説があるか、どうか(書き手視点による一考察)」

あるツイートで

「万人が楽しめる小説ってなんだろう?」と言っていた人がいましたが、

それをテーマに少し語らせて頂きます。

興味がございましたらお付き合いください。

まず、

「そんなモノはありません。限りなく絶無です」

というのがじゅーしーの意見。

現在進行形でもっともシェア、というか認知度や人気があっても、それが国内で一番人気の作家の作品であっても、日本国内の小説人口をどれほどカバーしているか。

そもそも、ベストセラー作家の映像化もしている作品であろうとも、少なくとも自分は3分の1もカバーしていないというのが実際です。

いや、それで面白くないかどうかは、自分とそれ以外の人に受けるか否かは測れませんが。

しかし、

人も、触れる本も時々で様々なのも由来するけれど、読み手が圧倒的に多様性豊かなのだから、そっちの理由でじゅーしーの意見は当然の帰結です。

ならばすべてのニーズに応えた作品が、もっとも万人受けするのかといえば、おそらく違う。

そういう作品でさえ「万人受けを狙ったあざとい作品」と思う層が必ずでるからです。

また、アンチが尽きないというのも、普遍性がどれだけ高くなっても100%の支持と人気に至らない理由の要点。

では、アンチが無くなった作品を万人受けする小説のハイエンドとするのか?

それは勝手だけれど、そもそもそういう狙いの小説は、何を書きたいのか?したいのか?

という問題にも抵触するのですよね。

そう、ここで書き手がその作品を「万人受け」を求めて書いているのか、

ただただ「面白い作品」を書きたくて書いているのか、という相克に突き当たります。

この両者に共通するのは、概ね人気を得たいという解釈で間違ってはいないだろう事柄ですが、それは、「大多数からの人気と面白さの等号関係」の上でのみ成り立ちます。

要するに、万人受け……大多数に受けなくとも、面白い作品は出来て世に存在しているという現実です。

ならば、万人受けとは、いかに人気のある面白い作品かというバロメータの最上級、ともいえる。

完璧というのが、欠点を排除したうえで成り立たないという誤謬からも、一番面白くても万人受けとは至らない実際。

ならば万人受けの作品を目指すのは、どういうことで、どういう意義があるのかという話。

「は?そんなの論じるだけ詮無いですよ。暇なんですか。物書きは面白い小説を書く為に地道をあげてなんぼでしょう」

と言わせていただきます。

というか、これを思ったからこその一連の論なのでした。

しかしそれでも一応まとめるならば、

意義があるとすれば「限りなく面白い作品を目指す意思」とその指針、原動力。

万人受けの作品というのは、読者層にはあるのかな?という疑問でしかなく、書き手には見果てぬ先にあるモノ、という実際感。

それ以上は個々の問題。

のるかそるか。つまりは、そういうことなのさ、とじゅーしーの書き手としての胆なぞを書いてみたのでした。

ではまた。