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とーしろさんの趣味よもやま話の通用口。

「人が分かり合う光はひと時となるとか、伝説となるか、現実となるか。『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』鑑賞・感想」

 

今回は、ガンダムファンでありながらこれまで視聴を避けてきた
機動戦士ガンダム 逆襲のシャア
をようやく鑑賞したので、その感想を書きたいと思います。

 

その前に、自分のガンダム遍歴をこの機会に書くと、
自分は幼少期に『Z』のZガンダムの変形する玩具を買ってもらい、
そこからガンダムに触れ、
民放の『Z』、『ZZ』の再放送をちらみしていたのですが、
当時はよく話の筋を分かっておらず、
記憶に残っているのは『アニメじゃない♪』
という有名な『ZZ』OP曲くらいです。
ガンダムがどういうところからきて何をしているのか、
カミーユジュドーとは、
など肝心なところを全く理解せず、
ただテレビをだだながしにしていたくらいの最初でした。

 

それが平成ガンダムになり、
『V』をまずシリーズを全話通して視聴。
感想は……正直、よく分からない、でした。
印象深いのは、褐色の少女が全裸で川で水浴びをしているのを少年たちが覗いていたり、
主人公のウッソが年上の女性にやたら興味を示していたり、
その一人の女性の新婚初夜に聞き耳を立てたりと……
まあ、今思うと放送コード大丈夫なの!? 
と言いたくなるところを覚えています。
ラストにかけて次々戦死していくのと、光の翼で圧倒して天に追いかけようとするシーンは、
今思うと富野監督の当時のガンダムや何かへの創作的暗喩を感じます。

 

本格的に見て面白かったのは『G』『W』です。
両方ともとても面白かったので、それ以後ガンダムはたいてい追いかけています。
『X』『SEED』『DESTINY』『00』『AGE』『ビルドファイターズ』『BFトライ』

 

最近では『08小隊』『0083 STARDUST MEMORY』『ユニコーン』『ナラティブ』
『ビルドダイバーズRe:RISE』(1期はまで視ていない)
を視聴しています。

 

特に好きなのは『W』『00』です。
別に戦隊モノが好きというわけではなく、
なんでしょうね、反政府的な反骨や厨二的な要素が好きだったのかもしれません。

 

そんな自分は、
ファーストである『機動戦士ガンダム』は2016~17年頃にようやく全話視聴しました。
それまで見てこなかったのは、90年台からすでに感じていた、
79年当時の初代のアニメの絵の拙さからです。
自分は絵が面食いなので、あまり乱れた絵を長時間見たくない、
という感覚からファーストを見るのを避けてきたのです。
けれど、あるアニメを通して、
製作者の苦労から作ってもらえるだけでもありがたい、ということや、
絵じゃなく話が主題、という考え方を持ち、
ファーストも視聴するのに踏み切ったわけです。
結果として、
富野由悠季というクリエイターの実力と作品に込めた情念などが
随所から感じられて、すごい作品だ、
これを30~40年も前に作ったのか……!と驚かされました。
そりゃ日本中の多くの男子が(すべてではなくとも)夢中になるわけだ、
ですね。

 

アムロの成長や恋、プライド、それに居場所を獲得する物語でもあり、
シャアもまたプライド、愛、復讐、
そして自分の理解者という居場所のために戦った面もあった作品であり、
これもまた富野監督の半生を著作物『だから僕は…』などで知ると、
なるほどな、監督のあれこれの想いそのもの全身全力の作品なのだな、
と震えるような作品だと思えました。
ガンダムはすごい作品です。

 

逆襲のシャア』はそんなガンダムの一つの決着点、
アムロとシャアの因縁の最終決戦が描かれるわけです。
内容に関しては、88年公開の映画作品ですので、
多くの方が見ていることでしょうから、
あまり書くべくもないと思います。
なので、自分の本記事では、鑑賞して特に思ったことを書かせていただきます。
前置きが長くなりましたが、
よろしくお願いいたします。

 

分かり合うことの難しさへの回答。

 

本作では、
クェスとその父親、ハサウェイと父のブライト、
それにクェスとチェーンやナナイ、
クェスとギュネイ、
信頼関係を築ているはずのシャアとナナイ、
それに本題のアムロとシャア。
みながどこかで分かり合えずに衝突をしています。
ギュネイはニュータイプ能力のある強化人間、
クェスとシャア、アムロニュータイプでありながら、
彼らは自分の考え方、価値観、守りたい存在や主張、信念のために
相手の意思を汲んで退いたり譲ったりがなく衝突し続けます。

 

けれど、アクシズの破片が地球に降下しようという時、
それをとめるために連邦側だけではなく、ジオン軍側も身を挺するシーンは、
共通の脅威や目的のために人は一時でも一つになれる、
という一条の希望を見せます。

 

だが富野監督はそれを、
一時の互いの利害でしか一つになれない人間の愚かさと醜さであり、
そんなことはこれまでにもいくらかあった、
そのうえで最大の脅威や理不尽の前ではそんな
小さな希望の光はむなしいモノだ、と言わんがごとくに、
アクシズを止めようとするMSを自壊させていきます。
このシーンのアムロの悲痛な叫びは、監督のガンダムや、
ガンダムで提示する甘い希望への自己批判のようにも感じました。

 

監督は、心のどこかでアムロのように
「もうやめろ!」
と言いたかったのではないか?
ニュータイプだ分かり合うだのは、
考えることなく才能ある者の提示するモノを摂取して学ばない愚民にとっては、
一時の暇つぶしであり、日々の生活と辛さのごまかしの方が優先順位が高く、
そんなことを人類全体の問題や課題として真剣に考えて、
それを一人一人が体現して互いによくなっていこう、
などとはほとんど考えることなく、
いくら人気のアニメと言われてもてはやされても主張や提示は無駄なモノではないのか?
こいつら愚民に言っても本当のところでは伝わらないぞ、
もうやめとけ、あいつらバカだから、
とそういう富野監督の気持ちもあったシーンではなかったか、
と自分は深読みします。
(自分が大衆をそう思っている、ではなく、
作品の作り手がそう思っていそうなセリフが劇中で出てくるので
そう拡大解釈しているだけです、悪しからず)

 

でもそれに関して、
富野監督は同時にその時点での回答もアムロで表現しているのがすごい点です。

作品で世界の人々の意識を変革して、
世界の問題を緩和や解消して、人々や自分自身をよりよくする。
その志はたいへん良いのですが、
それが個人や一クリエイター企業集団、
一国のメディア発信の創作物でなそうとしたり、なせると思うのは、
とんだ思い上がりであり、また、自分の代だけで回答を得たいという
『急ぎすぎ』
でもあったのだと思います。

 

それは富野由悠季という『人間』の劣等感からくす自尊心や意地といった
エゴがそうさせるのでしょう。
(しかし、それはこれまでの歴史上でも、今なお大半の人間にあることであり、
責められるべきことでもないのでしょう)

 

 

時代の変化が急速といっても、それは技術だけの面であって、
必ずしもそれに見合う人間の精神の成長、変化が伴っているとは限らないわけです。
むしろは、大多数の人は急速な変化に対応できないでしょうし、
できていないが故の問題も新たなタイプの犯罪の加害被害となって顕在化していると思います。

 

これは『ユニコーン』『ナラティブ』でも回答とし提示されましたが、
人の変化は一代で完了するようなモノではなく、
アムロとシャアのようにニュータイプが現れてきても
すぐに人が相互理解でき合うような成長がなされるわけではない、
ということを富野監督はこの『逆シャア』の時点でだいたい理解していたのだと思います。
そのうえで、

 

「急ぎすぎもしなければ
人類に絶望もしちゃいない!」

 

と提示して、
ニュータイプのような存在でも人間とは分かり合えないが、
それでもこうしていきたい、という富野監督のアンサーが描かれたのだと思います。

 

これはある種、現時点での分かり合うことへの見切りであり、
またその反面で、これからに対して希望を持ちたい、
という富野監督の『希望を持ち続けたい』という意地や執念が感じられますし、
ニュータイプのようになれば人は変われる、分かり合える、
という理想やある種幻想を提示したことへのけじめをつけたとも受け取れます。

 

そういう意味で、
逆襲のシャア』はガンダムを始めてニュータイプを打ち出した富野監督にとって、
作らなければならない作品だった、とも感じます。

 

本当は(一部とはいえ)分かり合えていた?

 

サイコフレームアムロ自身の心の中の希望という光や、
周囲のアクシズを食い止めようとする人たちの希望の光を
彼がニュータイプとして受信して、共振、増幅して脅威を退ける力を出力したともとれる
アクシズへのラストでしたが、

 

シャアはアムロと対等に闘いたかったからしサイコフレームの提供が、
人によっては上から見下していると映るわけでしたが、
結果、それがアムロたち連邦側を『手伝う』ことになった。
ロンドベルのブライトがアクシズ降下の決め手を
「シャアを手伝った」
といったように。

 

これは一見、互いに目的をつぶし合っている奇妙な間柄の因縁的な行為ととれるが、
シャアの心のどこかに、
とめれるものならとめてくれ、
という本当は誰も母なる地球や人々を害したくはなかった思いが
少しでも心のどこかにあったのでは?
とも自分は思います。

 

アムロや連邦、ジオンのアクシズ降下阻止に動いた面々は、
結果としてシャアのその気持ちを分かる形になっていたと言えるのではないか?
(こじつけ感もありますが)

 

そう考えたとき、
ここでアムロがシャアに共感していては、
本当にそういう人類の愚かさへの絶望の奥底にある希望を信じたい気持ちも沿うように、
アクシズを止めるべく動かなかったかもしれない。
そうなったら、結果アクシズは地球に降下して、冬が訪れてシャアの当初の目的は達せられたが、
それは彼の絶望とそこからくる変革をより先に進めることになったかもしれないのだと思う。
それは、愚民の大量殺戮だったかもしれないし、
それによる選民国家の建設だったかもしれない。

 

そんな理想を体現することが果たして、
シャアにとっての本当の幸福なのか?
それともそこまでの人類への深い絶望が彼の経験や理解にはあるのか?

 

だったとして、
こういう人にとっては、絶望を肯定することが救いなのか?とも思う。
打ちのめされて、傷ついて独りでうずくまって世界を呪詛して、
その呪いを何らかの形でばらまく……

 

それって、一人の行いなのだと思う。
けど、人は肝心なところで求めれば一人ではない。
絶望した中にある、その人の心にほんのわずかにある小さな希望を掬ってくれる人も、世界のどこかにいる。
もしかしたらこれまでの知り合いのなかに、すでに近くにいるかもしれない。
そう思うと、絶望を肯定するよりも、その中に潜む希望を見つけてそれを肯定して
寄りそったり力を添えることの方が
その人の救いであり、幸せに繋がり、大切なことではないか、
と思うのです。

 

そういう意味で、
アムロはシャアの人類への愚かさ、分かり合えなさの絶望に関しては肯定や理解はしなかったが、
もしあるとしたら絶望の底にあるわずかの人類と地球への愛という希望を
掬いあげて肯定した、
思いを同じくしたともいえるかもしれません。

 

意識的、思考的な分かり合いではなかったかもしれないですが、
根っこの部分では気持ちを分かちあっていた。
それでは足りないから争い合うという見方もできますが。

 

けど、ララァだって地球の人間で、人類の一人だったのですから、
シャアだって同じ人類として心の奥の奥の奥の奥底では、
人類に希望を持ちたかったのだと思うのだ、と。
アムロアクシズをとめることで、皆がそれに加わることで、
シャアのそんなほんの少しあるかもしれない気持ちを分かり合うことが出来たのだと、
そんな風にも解釈しました。

 

だったとして、本作はどうだというのか?
表面上は分かり合っていないけど、
根っこのところでは気持ちを同じくしていた。
希望を信じたい気持ちを分かり合っていた。

 

それは、一種の始まりや小さな変化、希望の片りんかもしれません。
これを機に一気に人類全体の進化や、全体が今よりもより良くなることとは違います。
でも、上記のように、それはアムロとシャア、
そして富野監督や自分たちの視聴者の世代たちですぐなされることではないのだと思います。

 

それはここから始まるかもしれないし、
ひと時の娯楽として人々の記憶のなかで霧散するかもしれないし、
それよりもむしろ、後々まで残り、後世の人々によって研究すべき伝説の思想となったり、
もしくは未来に本当に成される、
今よりもより良く進化して分かり合える考え方の人類を生む始まりとなっている『かも』しれません。

 

そこはまさに
『可能性』の領域です。
そしてその可能性を成すのは、少しずつ成していくのは一人一人の人間たちの心だと言えます。
やってみなければわからない。
絶望に囚われてありうるかもしれない道をあきらめてはそれこそ望みは絶たれてしまう。

 

現実的にいってすべての人間が分かり合えるようになることは、
262の理論からいってもないでしょう。
ですが、分かり合える進化をした在り方が262の26を占める世の中がくるかもしれない。

 

分かり合おうと努力し近づく人がほんの僅かの2以下が現状だとしても
(もっと少なく2中の2かもしれません)
そこから世代が更に更に重なることで、それが26になることもあるかもしれない。
むしろ今のような人間の在り方が、
2中の2になることもあるかもしれない。
それこそが『可能性』であり、
富野監督とアムロとシャアが心の奥では肯定したかった、
分かり合いたい希望、人の心の光ではないか?
と自分は思いました。

 

アクシズ降下を阻止しようと身体を張った人々は、
そんな希望をあきらめない人たちだったし、
彼らはそんなところで分かり合えていたとも言えます。

 

人間、本当の本当のところでは、絶望しきったら生きていません。
生きているということは、その心の大部分が絶望に覆われていても、
その奥底の奥底やどこかで、希望を信じたいという思いや願いがあるからこそ、
人は生きていると思います。
本当の分かり合いとは、
原初的な分かり合いとは、まずそこではないか。
生存への希望と自分と同じ人類に価値を見出す愛という希望ではないか。
本作はアクシズ降下阻止を通して、皆が、実行しようと企てたシャアさえもが、
本当のところで人類が生きることを心のどこかで希望として抱いていた。

 

もしかしたらもしかしたら、シャアも富野監督も、
人類を愚かと断じながら、同じ人類としてみなを愛したいと希望を持ちたいのではないか?

 

アムロは表面上の立場や因縁、思想や信念からはシャアと分かり合えなかったが、
そういう根っこのところでは分かり合うことが出来たのではないか?

 

ガンダムは技術が発達して宇宙に進出し、巨大人型兵器なども汎用できるようになった時代を描いたが、
人が分かり合う部分においてはまだひな型もひな型な形を提示することになったのではないか?
教育の普及と技術の発展、文化の広がりがあっても、
本当に人類全体が知性体として成熟して、
他者の存在を尊重したレベルの知性を多くの人が持てているかというと、
ガンダム世界でもアニメはないリアルの現代でも全然だと思います。

 

そんな人たちに、
『でも希望はもってより良くなっていくよう意識して行動し、
いつか分かり合える夢を持ちたい、
という一筋の光を心に持つ』
『人類はまだそれだけの価値はあると希望を持ち、見捨てず愛する』
それを分かり合うひな型をガンダムは提示できているのではないか?
と自分はこれまでのガンダム遍歴を踏まえて今回『逆襲のシャア』を鑑賞して考えます。

 

富野監督にとってのニュータイプ

 

富野監督は以前のインタビュー記事で
ニュータイプという概念に挫折した」
と述べています。
これは、一代で提示するニュータイプという
『人が分かり合える進化をする』
という理想の提示が、実際にはそんなに一代とか性急には成されないという現実を
『実際に世間に提示した実感として、やったうえで理解した』
ということだと思うのですが、
これは一人や一集団の分を知ることになったと言えますが、
ここで富野監督が多くの人と一味違うのが、
それで凝りて大人しくなる、縮こまる、というのではない、ということだと思います。

 

それでもやれることはやる。
自分が命あるうちは。

 

それが富野監督なのだと思います。
これに対して、クリエイターとしての責任や意地、
生活があるから、妻子のために当然、
ととることもできます。

 

でも、その当然や意地や責任であっても自分が行おうと思ったことを続けられない人も
世の中にはゴマンといるのは世間を見まわせば歴然です。

 

ここに富野監督の気概、気骨、反骨、魂があると思います。

 

シャアが劇中で口にしたように、富野監督の立場は
才能を愚民に利用されているだけ、
才能を視聴者の暇つぶしに浪費させられているだけ、
という見方もできるかと思います。

 

アムロとシャアは富野監督の内面を分割して形にした面もあると思います。
そんな二人の最終決戦の『逆シャア』は、因縁の決着と謳っているが
これは聖戦ではなく、あくまで人間同士の時代の一時、
分かり合いのきっかけ、伝説の始まりだったとも言えるかと思います。

 

それは互いのこれまでのすべての経験と考え方のぶつかり合い、
という熱い己の魂で生きる男たちの姿が描かれていたフィルムだったともとれて、
この富野監督そのものの作品を
ただの暇つぶしの娯楽とするか、
それとも何かで互いの心に寄り添い分かり合うきっかけにするか、
そこに希望の光を持つ新しい人類になるか、

 

それは当時から、そして今なおガンダムを愛する視聴者の我々次第なのだと思います。

 

富野監督は自らの鬱屈に立ち向かって己の出来ることをやろうと進み続けた。
本作『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』もその過程であり、
本当に我々がガンダムを愛する気持ちがあるのならば、
物語という作り手が抽出されたうわべよりも、作り手の『人間の魂』にこそ、
震えて動いて生きてみるべきでは、と思います。

 

ガンダム』には、『逆シャア』には
そんな富野監督の希望の光が確かに宿っていると思うから。

 

88年から30年以上の間を空けて本作を鑑賞し、
今の自分はクリエイター富野由悠季を踏まえて『逆襲のシャア』をそんな風に思いました。

 

長々と論じましたが、さすが富野御大、考えさせられる深く味のある作品でした。
大いなる感謝を。

 

ではでは~。