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とーしろさんの趣味よもやま話の通用口。

「『四月は君の嘘』とは。その意味が届くといいな。『四月は君の嘘』最終話「春風」感想・改稿」

 

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 ©新川直司講談社/「四月は君の嘘」製作委員会

 

※ネタバレ注意。
最終話なので
本作のタイトルと謎にかかわる大きなネタバレが書かれております。
四月は君の嘘』の原作、およびアニメ最終話を未視聴の方はご注意ください。

 

四月は君の嘘』、最終回を迎えました。
その内容は、公生が自らの意志でピアノを弾くことを選び、
その演奏はそんな気持ちにさせてくされた、
これまで自分を見守り支えてくれた人たちへの気づきと、
その気持ちに応えるべく全力で己のできることを、
演奏をすることを公生が他の何かを理由にすることなく自らの意志で選ぶことでした。
同時にそれは、かをりとの別れを告げるということでした。
コンクールののちは、かをりから遅れて告げられる彼女の本心と、
そして『嘘』の正体でした。
公生はそんな彼女の存在と、彼女がくれたモノを胸に宿し、
宮園かをりを忘れずに、自分のなかに住まわせて
また巡る春を過ごしていくようです。
その隣には、いつもそばにいた椿が一緒に。
こうして四月に出逢った変なヴァイオリニストから始まった公生の物語は、
運命が変わって続いていくのでした。

 

最終話を改めて自分なりにまとめてみると今はこんな内容です。
今回は、それとともに
2015年当時から君嘘について考え続けて、
改めて、加えて思った
『君嘘とは?』『四月は君の嘘ってつまりこういうお話だったよね』
について書きたいと思います。

 

公生の気づき

 

公生は周りの自分を見守る人達の存在にようやく気付きました。
これまでそのことに対して気づかなかったのは、
自分の内側のネガティブなことばかりに焦点がいっていて、
周りの人たちが自分に対して大きな価値を抱いていることについて鈍感だった、
あるいは気づこうとしなかったこともあると思います。

 

アニメとは関係ないのですが、
命に係わること以外は好きにさせて欲しい、

 

という歌のフレーズがあるのですが、
これは客観視点で言い換えると、

 

命に係わることをして死んでしまったら悲しむ人がちゃんといるんだから、
ということだと思うのです。

 

それだけ、心配してくれる人たちというのは、
公生にも、視聴者さんたちの誰しもにもいて、
それだけその人に価値を見出し、
言ってしまうと『愛してくれている』人が周囲にはいるということです。

 

自分の内のネガティブにフォーカスして自分の殻に閉じこもり、
周りを見ようとしない人間は(特に今の場合は思春期の若者(や心がそうな人)は)
その周囲の人がこちらに見出す価値や、愛に気づかないことが多いのだと思うのです。

 

場合によっては構われること、
心配され愛されることを煩わしく思う人もいますが、
それは自分で自分に価値がないとネガに思っているからこそでる心の動きだと思います。
人間、愛されて嫌ということは、
よほど束縛されたゆがんだモノや、嫌いな相手でもなければないものです。
心配されることや、愛されることが煩わしいのは、
それは周囲が自分に価値を見出していないというわけではなく、
その人が心の奥で勝手に(自分は価値がない、愛されるに値しない人間だ)
と思っているだけだと思うのです。

 

これは何か、現実の障害や問題にぶち当たって、
自己肯定感や自信が揺らいでたことからきていると思われますが、
若い頃にはよくあるパターンで、かつとても厄介なパターンでもあります。
これを脱するのは、公生のように成長でしかありません。

 

成長=変化、内的な変化

 

本当は周りの人は自分に価値を見出し、愛してくれている。
このことに素直に目を向け、感謝する心へと変化することだと思うのです。
そこにあるのは、自分が自分の価値を信じるという気持ち。

 

公生は、
気まずい関係になった椿がそれでも風邪の身体をおして自分のために
応援に来てくれていることの意味や、
自分の懸命に時間を傾けてきたピアノに対して
これだけの人がポジティブにもネガティブにもそれぞれの思いで期待を寄せて
自分を見に来てくれていることに気づき、
そのことに感謝したのだと思います。

 

これまで母の言いなりでやって、やるのが当たり前で、
結果は幸か不幸か勝手についてきて、
聴いてくれている人の存在などまったく関心がなかった公生。
それは武士や絵見といった
競い合うライバルたちの存在にも気を留めていなかったことからも分かると思います。
公生は(母のために母に従っていた)自分のピアノしか眼中になかったのだと思います。
(だから近視眼のメガネなのも納得のいくところです)
そんな公生だったから周囲への心の底からの感謝などもなかったかもしれないし、
多くの人たちの聴いてくれていることの意味を考えることもなく、気づくこともなかった。

 

そんな公生が、椿との今の状況での関係性で彼女が来てくれたことで、
かをりと繋いだ手が血に塗れて見えてしまうドン底の窮地で寄り添ってくれた椿のおかげで、
聴いてくれる人(わざわざ聴きにきてくれる人)の存在に感謝を抱き、
彼らの存在と、その気持ちに想像がようやく働いたのだと改めて思うのです。

 

そして、自分を見てくれている人たちが自分に価値を見出してくれていること、
愛してくれていることに気づいたとき、
公生は自分自身の価値を信じていいかもしれない、
と思えたのだと思います。

 

少し話が他の作品になりますが、
尾田栄一郎先生の漫画『ONE PIECE』で
主人公ルフィの義兄である火拳のエースがいるのですが(ワンピをご存じの人も多いと思いますが)
彼は自分の存在価値を証明するために海賊として危険を顧みないところがあります。
それが、大戦争のさいに虜囚となり、
そんなエースを救い出そうとするルフィや白髭海賊団の仲間たちの存在を目の当たりにして、
今わの際に

 

「愛してくれてありがとう」

 

と言い残します。
これは、自分に価値を見出していない、劣った問題のある育ちの人間が、
その価値の証明のために無茶をして、
でも周りの人間は彼の存在に大きな価値を見出して、愛しくれていた、
というとても遅くはなったがエースがそのことに気づいたシーンだったのだと思います。
(異なる解釈もあるとは思いますが、ひとつの意見として受け取っていただければ)

 

この戦争の結末でエースは命を落としますが、
しかし彼はルフィや仲間のおかげで自分の存在価値を確認し、自分と自分の生を信じ、
それを与えてくれた周囲の人々に対して感謝を述べて
満足して逝ったと思うのです。
一番欲しかったモノ、
他者に見出される価値、愛を自覚したのですから。
この時エースは自分の価値を信じられたことで、
無茶をしてきた末のこの結末に後悔もなかったかもしれない、
救われたところもあったのでは、と思いますし、
周りの愛にも気づける心の変化、成長をしたことで、
鬼子と言われた彼が人となったのだとも思います。

 

これが公生にも同様に起っていて、
心の変化、成長は、
椿の控えめな献身によって周りが自分に価値を見出してくれていること、
『自分が愛されていること』にようやく目がいって
公生は自分の価値を信じてみる気持ちになり、
自分の殻に閉じこもりネガティブに考えることから離れる力を得ることが出来たのだと思うのです。

 

自分を見守ってくれている人たちの存在とは、
椿や渡、武士や絵見、多くの人たちのように自分に価値を見出してくれている人たち、
愛してくれている人たちの存在であり、
周囲の存在に気付くとは同時に、
愛してくれている人たちの存在を知るということでもあると思います。

 

だからこそ、それに応えなくては、と公生は自分に出来る精一杯で応えたくなる。
せっかく愛してくれているのに、
その愛を無駄にするわけにはいかない。
だからこそ、僕は行くよ、と。
弾くのだと。
「弾くんだ」
と。
僕のありったけのピアノを。

 

これに気づけた公生は、
雪で凍り付いたような心が氷解して溶けていったかのようだったのではと思います。
それはこれから春を迎えるために必要なステップ。
公生はその自己の変化、成長を果たしたのだと思います。

これだけの言葉を尽くして説明するキャラの内的な動きを、
伏線やそれまでの物語の流れもあったとはいえ、
椿の『ひっちょ』とその後の公生のわずかの台詞でやってのけた新川先生の漫画力、創作力には感服です。

 

そして、自分の殻を破り周囲の愛に気づいた公生は、
自己が向ける最大の愛にも目を向けます。
それは、それだけの愛(他者に見出す価値)を宮園かをりという女の子に抱いていて、
本当に愛するからこそ、
自分の心の状態なんて邪魔っけなモノは春風のように勢いよく吹き飛ばして
春鳥が羽ばたくように自由に彼女への精一杯のピアノを弾く、
という気持ちにもなったのだと思います。

 

愛のバラード。自己表現の完成形

 

そうして弾かれるコンクールの公生の曲は、
ショパン
バラード第1番 ト短調 作品23

 

この曲の最中にあったのは感謝すべき人たちの存在と、
その最大の相手、かをりのこと。
彼女を思って弾くバラードは、
武士の言葉で
「この演奏は告白だ」
と言わしめます。

 

※この辺の解釈はアニメのみではなく、
カットされている原作本来の台詞なども含まれています。

 

前回まででかをりへの恋心を自覚している公生ですが、
最終話が済んでみると、
その思いをかをりに直接言葉では伝えていません。
これについて、結局かをりへの想いは伝えなかったの?
公生の(恋に関しての)自己主張はどうなったのか?

 

と思われるかもしれませんが、
19話でのコンクール一次予選で武士が
「モノは演奏で語らないとな」
とのセリフと合わせると、その答えが見えてくると思います。

 

公生はこのバラードの演奏でかをりへの告白を表現したのだと、
そういうことだと言えると思います。

 

自分は演奏家であり、
同じ演奏家である愛する宮園かをりにこの演奏を届けと思いを込めて弾く。

 

公生は作品的に『ピアノの詩人』ショパンを表現しているようです。
そのピアノの詩人が宮園かをりという恋した女の子への想いをピアノの詩情で表す、
これが公生の辿りついた演奏家としての自己表現なのだと改めて思います。

 

そして、こう考えたときに君嘘がたまらなく愛おしいのは、
自己表現が言葉でもピアノでもできなかった幼かった公生が、
それが出来るようになった、たどり着けたのは、
かをりの存在があってこそ。

 

キミだよ、キミのおかげなんだよ。

 

ということです。

 

そんな宮園かをりという女の子とは。

 

公生にとって成長して愛を知った女の子、かをりちゃん。
彼女は結局のところ、亡くなり、
星となりました。

 

けれど、これまでを思い返すと、
かをりは公生にとって導きの星でもあったと思うのです。
そして、公生とかをりの二人で流星群を見たように、
かをりは輝きながらも消えゆくさだめの流星となり、
物語を通して、かをりと過ごした時間を通して
公生はそんなかをりを見の内に宿しました。

 

僕の中に、キミがいる。
とはまさにこのことでもあると思います。
公生のなかでかをりという星は生き続けます。
何故なら、公生自身が星に導かれ、星を身の内に宿し、
彼自身が誰かの星になったのですから。

 

公生という星が演奏で輝き続ける限り、
その星を導き生み出したかをりという星も生き続けるのだと思うのです。

 

四月は君の嘘はそんな、公生とかをりの二人が星になる、
きらきら星変奏曲のお話の面もあったのだと思わされます。

 

万雷の拍手という降り注ぐ星々の輝き。
再来した忘れられない風景。
それもまた星が瞬くきらきら星の景色。
公生のモノトーンの世界は、かをりという星に導かれてこうして
星へと変奏されたのだと思います。

 

かをりは流星(火球)と化した星(織姫)
火織、化織
といえるかもしれませんし、
公生は=恒星
といえるのだと改めて思います。

 

そして、君嘘とは。

 

けれど、かをりは失われました。
このことについては大変悲しいです。
当時の改稿前の感想では、
もしかをりが病魔に侵され亡くなるエンドだとしたら、
かをちゃんほどの輝くヒロインを殺してしまうなんて、
もう容赦のない作者の新川先生は『弩ゲドーです!』
などと感情を爆発させた自分もいました。

 

けれど、前回の感想にあるように四月は君の嘘が公生の物語であり、
公生の成長と自立のためにかをりが命を使った、
それを新川先生は描き切った、
と考えたとき、
自分自身の君嘘やかをちゃんへのファン心理とは別に、
そこまでして漫画を描く、創作家としての新川先生の
覚悟が心で理解できました。

 

新川先生もかをりほどのヒロインを殺してしまうことは
辛かったところもあると思います。
それでも『道を極める』の精神でそれをやり切った。
雑誌のインタビューやアニメ監督の口からもれる新川先生の言葉では、
連載開始当初からこのかをりの結末は決まっていて、
新川先生はこれを鬼の通る道のごとくやりきったと言えるのではないでしょうか。

 

自分はファンとして以上に、
モノ作りをする人間として、そんな新川先生の気持ちも分かりたいと、
そう思ったときに、
かをりを失ったことへの心の整理が別の角度から進んだように思います。

 

そんなように、君嘘はかをりが失われたことに対して、
公生もそうですし、読者、視聴者のみなさんもその人なりに心の整理をつける
という作業も必要な作品となったと思います。

 

自分はここに書いたような納得、肯定として整理しました。
……けど、今はその形は様々で良いとも思っています。
みんな、それぞれにかをちゃんと君嘘を愛しているだけなんですから……。

 

そんな君嘘は、公生がかをり亡きあともピアノを弾き続け、
彼女の存在を忘れずに胸のうちで生き続けさせているように、
愛した存在を失った悲しみに囚われて進めない、
ではなく、
失っても進む物語、
でもあったのではないかと思います。

 

それは公生が母、早希さんに別れを告げて進んだことと同じ、
過去に囚われるのではなく、
失われた人は大切だったが、それに囚われるのではなく、
今を生きる自分と、
その周りで自分を見守ってくれている人たちとともに生きることを選び、
進んでいく、
そういう気持ちに公生がなれる物語だったのでは、と
改めて思います。

 

最愛の母を失ってモノトーンになった公生は、
またしても最愛の人となった宮園かをりという女の子を失っても、
それでも自分を愛してくれている人たちとともに、
今とこれからを懸命に生きていく。
演奏家として。

 

もう自分の殻に閉じこもって自分のことだけネガティブに考えてぐちぐち言い訳して、
昏い海の底に逃げているわけにはいかない。
言い訳して逃げていると楽だけど、
周りの自分に価値を見出してくれている人たちのことを思ったら、
そんなみんなに顔向けできないマネは、もうできないから。

 

そのことに公生は気づき、おのれに出来ることをしようとこれからの先に進みだした。
これこそが最大の成長であり、
公生がまた一歩大人になり、自立したということで、
四月は君の嘘はかをりというカラフルな女の子との出逢いで
そこに辿りついた物語だったのだと思います。

 

公生の物語。そして、二人の物語。


アニメ第1話のラストでは台詞が変更されていましたが、
漫画原作第1話のラストの公生のモノローグに
公生の成長を象徴する台詞がすでに描かれています。

 
「14歳の春、僕は、
自分の足で走り始める」

 

公生は辛くてどん底の中にあっても、
それでもピアノを弾いた。
それができる力の在り処に気づいた。
かをりと一緒だったからこそ出会えた気づきであり、
だからこれは二人のワルツだといえるのです。

 

そして、最終話で明かされたかをりの嘘によって、
彼女の天真爛漫、ジェットコースターのような性格、
そのものも嘘であったことが分かり、
かをりも病によってモノトーンであったことが分かります。

 

そんなかをりが走り出したわけは、
公生の存在。
彼女の人生で一番カラフルで思い出深い男の子への想いだったのだと思います。

 

かをりは目的のために渡に接近した。
そこにあった想いは公生の存在。
彼がモノトーンだったかをりを走りださせた。

 

だから君嘘は、
二人を動かす光になる、
互いを照らし導きあう星に、公生とかをりが互いになり合う物語だった
のだとも言えると思います。

 

それでアニメでは第1話のラストのモノローグが、
キミと走り出す
に変更されたのだと思います。

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 ©新川直司講談社/「四月は君の嘘」製作委員会

 

 

最後に、
君嘘の表題にある『嘘』の意味についてもう少し。

 

かをりが四月に吐いた嘘は、
渡を介して公生との繋がりとなり、
そして

『もっとも美しい嘘』を生み出すことにもなった。

 

かをりのいうこの『もっとも美しい嘘』とは何か?

 

それは君嘘を最終話まで視聴して、
ラストの手紙でかをりの吐いた嘘の背景を知ったことで改めて見えてきました。

 

公生も、そしてかをりも、
表面は鋼鉄の心臓のヒーローや、ジェットコースターのような強い人ですが、
本性では弱い人間です。

 

そんな弱い人間が、その本性に対して、
自分を支える人たちから与えられる愛や価値、その人たちを大切に思う気持ちから、
そんな弱い自分をだまして、鼓舞して、
最高の自分に近づこうする。
みっともなくあがいて、限界を超えて寝食を忘れて打ち込んで、
最高の自分で大切な人たちや自分を見てくれる人たちに愛と価値を返そうとする。

 

その姿と、そうして生まれる演奏こそが、
『もっとも美しい嘘』
なのではなかったか?
と自分はこの改稿を通して改めて思いました。 

 

そんな姿をみせて、見てもらえたなら、そして愛してもらえたなら、
かをりのような結末であっても――それは必ず誰しもに平等に訪れる結末でもあります――
美しい姿をみんなの心のうちに住まわせることになる。
たとえ本性は弱い人間であったとしても。
美しい嘘とは、そういう『嘘』なのではないか?

 

そして、かをりや公生、それは椿も渡たちの懸命で美しい姿や数々の言葉は
確実に自分のなかでも生き続け、
それは自分もまた数々の弱い自分をだまし、鼓舞する『美しい嘘』で
自らの人生を前に進む強い力となっています。

 

だからこそ、
走り出し『嘘』を吐いたかをりに、最大の感謝の言葉を述べたい。

 

 

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  ©新川直司講談社/「四月は君の嘘」製作委員会

 

かをりちゃん、ありがとう。

 

最後に、そんな力を得ることが出来た『四月は君の嘘』はまた同時に、
どこまでも情感深く、意味合い深く考える機会になり、
心震える数々のシーンで自分にとっては嘘偽りなく、
10年に1度もないそんな感動を与えてくださった本作。
そんな素晴らしい物語を生み出してくださった
新川直司先生にも大いなる感謝と、万感を以ってここに書き記しておきます。

 

四月は君の嘘』と出逢えて本当にとてもとても良かったです!

 

この作品をに触れて、また同時に読み解くことで学びとったモノを、
しっかり活かして自分もこれから先を歩んでいきます!

 

新川先生、
マンガからアニメに至るまで制作に携わったみなさま、
かをり役の種田梨沙さん、公生役の花江夏樹さん、
佐倉綾音さん、逢坂良太さん、早見沙織さん、梶裕貴さん、茅野愛衣さん他キャストのみなさま、
イシグロ監督ほか多くの製作スタッフのみなさま、

 

本当に本当に、本当~~~ッに!ありがとうございました!

 

ありがと……ごぢぇ……ます(ぼろ泣き)

 

君嘘、大好き!!!!!!!!ヽ(*´∀`)八(´∀`*)ノイエーイ

 

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  ©新川直司講談社/「四月は君の嘘」製作委員会

 

 p.s もう1回記事を使い、君嘘の細かい設定や
伏線に関する考察を述べたいと思っております。
興味ありましたら、お楽しみにお待ちくださいまし~♪
※2015年当時の伏線・設定考察Codaシリーズに続きます。