1046ワークス24口

とーしろさんの趣味よもやま話の通用口。

「そして公生はきづく。『四月は君の嘘』第21話感想・改稿」

 

アニメ『四月は君の嘘』の感想、改稿文になります。
いよいよコンクールの日がやってきます。
かをりの容態は、コンクールに挑む公生は?
おつきあいいただけると幸いです。

 

2月18日。
その日が公生にとって今後のピアニストとしての進路が分かれる要の日、
東日本ピアノコンクールの本選が行われる日です。

 

それをわずか前にして、
かをりの容態の急変を目の前にしてしまった公生。
渡は椿や柏木さんといった
一緒にかをりのお見舞いに時々訪れていた面々にも
自分たちがみたその事実を伝えます。

 

椿は公生が大きなショックを受けていることを知り、
どうにかしなければと思います。
公生と離れ離れになる音楽はあまり好きではない、
かをりの存在もちょっと気に障る、
でもこれで公生がダメになるのはもっと嫌だ、と。

 

ここで椿がとったアクションで紘子さんが動き、
ショックで自室でうずくまる公生に檄を入れて
間近に迫ったコンクールの練習をするように促します。
……が、公生はもうだいぶダメージを受けているようです。
その悲痛な訴えに紘子さんも無理強いはできず……

 

とりあえずこの日はどうしたのでしょうね。
このしばらく後で公生は学校に登校していますから、
紘子さんは食事を摂らせるなりちゃんと眠るなりの
生活面での立て直しを施したとも考えられます。

 

この辺の解釈については、
自分の二次創作である
公生のコンクールへの短編二次小説で解釈して描いています。
興味がある方は読んでくださると嬉しいです。

 

四月は君の嘘 『僕と君との追想曲』

www.pixiv.net

 

武士と絵見のライバルたちが着実に課題曲を仕上げているなか、
本編当初にそうであったように有馬宅のピアノには物が積まれていて、
公生の心がピアノから遠ざかっている様子でした。

 

それは今、公生からピアノを弾く理由が失われようとしているからなのでしょう。

 

四月に出逢った変なヴァイオリニスト。
宮園かをり。

 

挫折した天才である有馬公生という男の子が、
再起して恋を知った女の子。

 

そのかをりがこのままでは死ぬかもしれない。

 

過去が甦ることでしょう。最愛の母の死の記憶のリフレイン。
愛する音楽が繋いだ、公生が愛する人間。
それがまた、公生の手から、心から失われようとしている。
無慈悲な運命によって奪われようとしている。
その辛辣極まる現実は中学3年生の少年の心を折り、砕く。

 

いや、もう。
この時の公生の気持ちへの、
全部ではなくても分かる部分、共感があります。
それだけの存在です、
視聴者にとっても宮園かをりという女の子、ヒロインは。

 

第1話で桜の咲き乱れる中で
自由と色鮮やかさであふれた衝撃的な出逢いを経て、
かをりの自由で、自分の生を全力で生きている音楽に度肝を抜かれ、

 

フィクションの世界の存在とはいえ、
宮園かをりという人物に公生同様に魅入られた人は
自分だけではなく多いと思うのです。
その彼女が失われるかもしれない苦痛、辛さは筆舌に代えがたい。

 

この辛さは改稿前の当時の記事では炸裂していますが、
今は心の整理を経ているので若干冷静に物語を追っていきます。

公生は渡が渡してくれと頼まれたかをりからの手紙を受けて、
彼女のもとを訪れます。

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 ©新川直司講談社/「四月は君の嘘」製作委員会

 

 


これが公生をかをりのもとへと導きます。

 

(渡はあのショッキング後も病院に通っていたんですね。
実のところ彼の方もまた『優しいヤツ』なのでしょうね)

 

そこで屋上に上る過程で
公生はかをりがとても普通の女の子であることに気づきます。

 

これまで自分が見ていた強くて自由で、
だから病気なんて吹き飛ばしてしまうような人……
宮園かをりは実はそんな人間ではない。
甘いモノが好きで、病室で寂しくて本やぬいぐるみで紛らわして、
震えながら評価を探るように訊いてきた、
だけどその実、病に犯されている人間……

 

でも、そんな彼女だからこそ、
見てくれている誰かの心に自分の最高の忘れられない姿を刻もうと
全力を振舞った。
演じた。

 

つまり、かをりの春からのカラフルで暴力上等、暴虐な姿は、
『嘘』であったということ。
彼女の仮面。彼女の偽りであったのだと。

 

いや、生来の気性、性格としてはそういうところもあったのでしょう。
けれど、病気がその足を引っ張って、自由にそう振舞うことを許さなかった。
病室で病人として大人しく、地味に……そう振舞わねば命に係わるから、
彼女は否応なくそうなってしまっていたのでしょう。

 

でも、何かが彼女を変えた。
突き動かした。
それは公生だったのでしょう。

 

あがくのも、あきらめないのも、
また夢を見るのも、
みんなキミのせい、全部全部キミのせい。

 

かをちゃんにとっての公生は、そんな存在。
これはもう、確定的でしょう。
かをりちゃんは渡よりも公生のことが本当は好きなのでしょう。

 

色々知ってる椿がうらやましい。
一人で逝って忘れられて一人になる。
その恐怖と悲しみを涙ながらに吐露したのも公生その人だった。
生きていて一番一緒にいたい、一人にして欲しくない人なのだと、
そう改めて思います。

 

かをちゃん……(涙)

 

けど、公生は音楽が最愛の人を奪っていく、
と述回しますが、本当はそうではないのだと感じます。

 

ただ、それが人の生のひとつの在り方であると、現実だという、
それだけで。

 

音楽は直接に因果してはいない。
ただ、生きるうえではどうしても、どうしてもさよならが付きまとう。
公生は若い身でありながらそれが身近すぎるということで、
切り離して考えられないのかもしれません。
そうでもして、何かのせいにしなければ
大切な人が次々にいなくなる自分のこんな辛い現実を受け入れられない。

 

また下を向いて言い訳をしている公生がいる。

 

映画『フォレスト・ガンプ』で 
「人は死ぬことも、生きることのうち」
という言葉を
フォレストのママンが言っていました。

 

だから音楽がどうとかは、本当はこじつけであり、
何かを理由にして現実から逃げようとしているに過ぎないんですよ。
音楽の所為にしているうちは、
辛さに耐えて今すべきこと(音楽のコンクールへの練習)から目を背けることも、
正当化してしまえそうだから。

 

これは公生にまだある弱さです。
けれどかをりはかつて、こう言っていました、

 

「私達は辛くても、どん底にいても、弾かなきゃダメなの」

 

だから此処こそが、公生の岐路なのだと思います。
彼にとってまさしく分水嶺

 

この公生を再び舞台へと向かわせるのは、
ピアノに向き合うことをさせることが出来るのは何なのか。

 

前回、冬の屋外の水で血濡れの手を洗う
公生の凍えた手を温める存在は誰か?と書きましたが、
これはやはり、かをりこそが真打ち。

 

再び公生にピアノを弾かせるのは、
ここでも宮園かをりです。

 

ここで彼女はいのちの使い道を、
自由で懸命な姿を演じるいのちの熱量を、
公生のために使うことを選んだといえるかもしれません。

 

星を見上げる力もない失意の男の子に、
再び標の星を見せるように。
 

病身を省みずに公生の希望となるべくかをりが持てうる全力を示します。

 

「奇跡なんて簡単に起っちゃう」 

 

そしてサン=サーンスの伴奏の時と同様に自分の不安と弱さをさらけ出すかをりに、
公生は懸命に生きる彼女の美しさと、そして雪のように儚いからこその美しさとを感じ、
それをしないで言い訳をして逃げている自らの愚かさを痛感します。

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   ©新川直司講談社/「四月は君の嘘」製作委員会

 

 

だから、かをりが失われる現実は辛いけれど、
『ピアノを彼女のために弾かなくては』、
と公生は自分に言い聞かせて、
暗示をかけて奮い立たせるようにしてコンクールに挑むようです。


コンクール本選当日。2月18日。
同時にこの日は
かをりの手術の日ともなりました。
まさに運命の日。

 

お互いの戦場に向か公生とかをり。

 

もう有馬公生という虚像はいらないと納得して、
自分のピアノスタイルを明確にして高めることを完了している武士と、
打倒有馬の情熱で自らの感情一杯のスタイルを更に高めている絵見。

武士のみならず、絵見の美しい姿での水際立った演奏に
凪は自分のこれから先に立ちはだかる壁を認識します。

 

公生の出番がきます。
けれど公生が今この場にいるのはもはや、

 

「変なピアニストになりたい」
「自分らしく弾こうと思います」

 

と言ったこころではなく、むしろかをりの必死に応えるために、
彼も必死に自分を奮い立たせているようで、

 

「弾かなくちゃ」

 

と繰り返し唱えて辛い心身でも舞台に挑もうとしています。
もう、良い演奏とか、
忘れられない景色とか、
進路のための実績とか、
そういうのはどこかに行っていて、

 

ただただ
君の為、

 

かをりの必死に応えること、そして逃げないこと、
彼女を裏切らないこと、
そして自分から言い出したまた一緒に演奏しようという約束の為――。

 

そんなかをりと交わした様々なモノが、
ここでくずおれそうな公生にとって最後の砦となって
この場にいさせて演奏へと向かわせようとしていように感じてなりません。

 

けど、これではこの日のかをりの手術の結果によっては、
公生はピアノから今度こそ離れてしまいそうな気もします。

 

それではかをりと時を一緒にして経験して、
公生が心に受けた影響と変化や、
かをりのお蔭で成長した人間有馬公生が、
儚く散ってしまいます。

 

そこで彼の凍えた心に、耳に響いたのが、

 

「ひっちょ」

 

だったわけですから、
前回のいきなり風邪のエピソード、
ゴリチヌス菌バイオハザードはこういうことだったわけですね。

 

公生はかをりがいなくなったらまた自分は
かけがえのない誰かを失い独りになる、
という感覚を無意識に持っていたんだと思います。

 

最愛の母、有馬早希がそうだったように、
そうした誰かの存在が大きいほどに、
喪失した時には莫大な規模の空隙を感じるものです。

 

失恋でもそうなのですから、
本当に愛していたらその規模は……カンガエタダケデオソロシイ。 

 

けれど、今そんなかをりが失われるかもしれない現実を前に、
椿が居る。
今日、自分の演奏を応援に観に来てくれている。

 

おそらく、かをりの件で傷心の公生に椿が何も言ってこなかった辺りから、
また、駄菓子屋の告白の件の気まずさから、
椿はもう応援に来てはくれないだろう、
と公生は心のどこかで思っていたのではないでしょうか。

 

でも、
椿はいてくれる。
そして、いてくれた、これまでも。
このことが公生に自分とかをりという存在それ以外にも、
多くの人たちが自分の周りにはいることを、ようやくと悟らせたわけです。

 

友人の椿も渡も、柏木さんも、
ピアノに関わる紘子さんも小春ちゃんも凪も、凪の友達も三池くんも、
当然、武士も絵見も、
高柳先生も、落合先生も、嫌味な審査員の井端先生も、

 

みんな公生を見ている。
公生の人生すべてで奏で出すそのピアノを聴くために。

 

一人で下を向いて言い訳をして、
現実の辛い事柄から向き合うことを逃げて、
でもそんな自分でもずっと周りには色んな人達がいて、
時に自分を支え、励まし、尻を叩き、待ってくれていたり、陰ながら応援したりしてくれていて、
だから自分は、人は
何かをできて、生きていられる、それらが成立している。

 

自分一人の小ささを知り、世界の人びとによって自分は成り立っているという気づき。
人は、一人ではいられない、
とは、一人では成立してはいない、
みんなどこかで、何等かの形で繋がっている。
そのことの気づきこそが、人間としての一番大きな成長であり、
大人になるということのように思います。

 

なんでも一人でできると思って他人を突っぱねていたり、
他人よりも出来ると思って見下したり、
我が物顔で自分だけが得することを考えて他人に横柄であったり、
それらは自分一人では本当は成立していない人間と世の中を知らない、
無知な子供であるということ。
この気づきがあり、他者の存在に感謝し、
恩返しをして、自らも与えて支えの一部となり、
なりあうことこそ本当の意味での大人だと思います。
それが本当の意味での自立。
経済的な、だけではない、精神的な自立なのだと思います。

 

そして、みんなの存在に気づけてだからこそ、そんなみんなに恥じないように、
顔向けできないような自分でいないように、
言い訳して逃げていないで、全力で懸命に自分の出来ることと向き合わなくてはならない。

 

もう、そんな言い訳をして逃げて、みんなに顔向けできなようなマネはできない。
全力で弾く。
弾く機会と、聴いてくれる人たちがいるなら。

 

……ああ、そうですね。
人は、
だから無垢で何も知らないままでは舞台に立てない。
すべての支えてくれる人たちの存在を知り、

 

それに応えようと全力を尽くしてこそ、立つべき心と技術、資格を得るのでしょう。
それが表現者……なのだと改めて思います。

 

彼の頭上には輝くスポットライト。
これが夜空に瞬く幾千幾万の星々の光を連想させ、
星々も含めて皆が公生を祝福しようとしているようでした。

 

これまでも全力を尽くしてきた公生と、
その今の公生のピアノを見届けようとしている。

 

これまで公生は、椿や渡、それにかをりとも夜空の星を見上げて来たけれど、
ここで知る訳ですね。
自分はずっと満点の星々のもとにあったように誰かに見守られていたという事を。

 

公生は、そのことを理解するとともに、
それに応えるべくピアノを弾き始めます。

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 ©新川直司講談社/「四月は君の嘘」製作委員会

 
「君の為」

 

辛い心をどうにか自らを奮い立たせる、恋した女の子を理由にすることから、
脱却したこころで。

 

「弾くんだ」

 

自ら望んで、自らの意志で。自らのこころで。

 

ここに来て、ここまで書いて、ようやく理解しました。

 

四月は君の嘘は、公生が自立する姿を描く物語だったのだと。

 

単なる青春をカラフルに描くとか、
世界を変える魅力的な女の子の存在というだけではなく。

 

自己を持たず、主張しない人形だった少年が
言い訳をして向き合うことから逃げていた彼が、
自分以外の誰かや何かに理由を求めるのではなく、
確かな自分の心と考え方、意志をもって、それを自由に主張して、
自分が一人ではないことを理解して自ら立って人生を歩いて行く。

 

その力とこころを得るまでの物語。

 

それまでの成長過程の自らの弱さと逃げへの向き合いと、
彼を形作った感謝する人々を綴ったお話。

 

カラフルに彩られたひと時は、
かをりとの出逢いはあくまで切っ掛けに過ぎない。
かをりは公生をピアノに向き合わせる、一時的な強制力に過ぎない。

 

この物語は、
ピアノの詩人、ショパンのようなピアニストである有馬公生自身が
自らのこころの在り方、考え方として、
ピアノを弾いていく(場合によっては人生で必要なすべからくを)意味と理由を
その手と心で掴むこととこそが、
本当に描くべき、
物語の本題だったんだと、自分も遅くなりましたが公生とともに気付きました。

 

じゃあ、そんな公生の標となった宮園かをりという存在はこの後どうなるのか?

 

それは次回、アニメ『四月は君の嘘』最終回でみなさんにも見届けて欲しいです。
これまで君嘘を愛して来た人たちに、
かをり達に心と時間をカラフルにされたあなたに、
是非、見届けて欲しいです。

 

自分もどんな感情になろうと見届けますから。

 

では次回、アニメ最終回の感想記事でお逢いしましょう。

 

春風は、もう近づいている。