1046ワークス24口

とーしろさんの趣味よもやま話の通用口。

「ジョジョの奇妙な冒険5部から改めて読み取る、ニーチェの超人論との接点について」

ジョジョ5部アニメ最終回からしばらく経ちましたが、

未だその余韻をのこし、

事あるごとに5部について考えを巡らせているとーしろさんです。

そんな今回は、

以前から自分のひいきのロックバンドであるUVERworldの名が示す、

ドイツ語の『ウーバー』『超える』の意味と、

そして、ドイツの哲学者、思想家でもある

フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ

の思想である

『超人』『ウーヴァーメンシュ』

これについて

以前触れたていたのを

この度改めて触れて考えたことを交えて、

ジョジョと、5部について考察したことを書いて行こうと思います。

(このUVERworld命名の由来も、

ドイツ語の『超える』の意味である『ウーバー』であり、

ヴォーカルのTAKUYA∞ニーチェの独創性に憧れている、と

『GOLD』という曲でも歌っています)

では、参りましょう。

語ると決めたのなら、その時すでに行動は終わっているんだッ!

運命の奴隷≒未人、そして立ち向かう者≒超人

そもそも、今回思ったのは、以前のつぶやきでの

最終回後のジョジョ5部感想、考察での一文。

『#jojo_anime

運命からは逃れられなくとも、

そのまま眠って何もせず奴隷(1部序文でいうと囚人)

でいるかどうかでその人と周囲の誰かの希望へと変わっていく。

ジョジョはあがっていく物語だから勝利を描いたが、

大切なのは結果だけではなく真実へ向かおうとする意志。

それがやがて希望へと変わりうる。』

ここからニーチェの超人と絡めて広げたのが、以下の考え。

こちらも自分のTwitterのつぶやきです。

(前述は)

『改めて触れたニーチェの超人、ウーヴァーマンの

思想、スタンスを感じる。

結果の是非ででやるかどうか、

ではなく結果によらず大切な目的等(個人の真実)をやろうとする、

向かう行動が重要で、

そこに伴う意志と情熱が生に充実を備わせるし、

結果に依らずその充実に生の幸福がある。#jojo_anime』

ニーチェはその著『ツァラトゥストラはかく語りき

で『超人』『ウーバーメンシュ』について語っていますが、

ニーチェの超人論とはなんぞや?

という方のために、

適度にわかりやすく書かれたサイトを見掛けたので、

それを紹介しておきます。

BeneDict地球歴史館

ニーチェと超人思想~超人と末人~

http://benedict.co.jp/smalltalk/talk-251/

このサイトの要約をかいつまんで

『超人』と『未人』について説明すると、

『超人』『ウーバーメンシュ』とは、

社会的な強者に対しての負けを宗教や道徳によってやわらげ、

弱者≒善、という道徳によって自分の立場をごまかし、

その弱者に甘んじる『奴隷道徳』ではなく、

人間として健全な欲求に従って行動する意志を持ち続ける、

力への意志』を持ち行動する、

そんな人間をニーチェは『超人(ウーバーメンシュ)』と呼んだ。

これは、たぐいまれな力や才能を持ち、

困難な目標を達成できる秀でた人間を超人と呼び推奨するのではなく、

資質がイマイチで成功が困難であっても、

自分の欲望、欲求から目を反らさず、挑戦する人間を言うそうである。

これは、結果ではなく、

目標に向かう『意志』こそが大切であり、

それによる生の過程の充実こそが人に幸福をもたらす、

といえる思想である、と思います。

それに対しての

末人、とは。

何の目的もなく、人生を放浪し、生をむさぼるだけの人間。

つまり、生きる屍のような人間たちのことで、

ニーチェは、このような末人が「神が死んだ」終末に出現し、

ノミのように地球にはびこると予言した。

以上の『超人』と『未人』を踏まえて考えると、

『ブチャは信じた組織の矛盾に未人になりかけるが

ジョルノの夢に正しいと信じること、

彼の真実に向かい行動したから結果に依らず幸福だった。

ジョジョの人間超えはニーチェの超人の要素も含み

5部は勝ち目のない大きなモノ≒組織、運命に抗い行動する

充実、幸福を護チの生き様で描いた。

#jojo_anime』

『ブチャを未人から生の充実と幸福という黄金に導いたジョルノは

生命の象徴である太陽でその体験の相互付与が見事、

SBRでの遺体への対処は、信仰を採りニーチェ的な奴隷精神での幸福ではなく、

生の充実に自らが立ち向かうことが重要、

という #ジョジョ の超人のながれで正統なラストと言えるのかも。』

という考え方に至ったわけでした。

1部のディオの(遣り方は悪だったが)上昇志向も、

5部のブチャラティ

正義と信じた組織に裏切られ続け、

目的もなくギャングとして生をさまよって次第心が死んでいく過程だったところに

ジョルノに出逢ってボス打倒を決意したのも、

未人になるかどうかのところに対して、

彼らは彼らなりの正しいと信じる目標、

力への意志』を持ち行動したということ、といえる。

だからこそ、ディオは人間をやめて、(人間を超えて)行ったし、

5部ではブチャラティたち護衛チームは矢によって人間を先に進める、

(スタンドの成長によって、既存の人間を超える)

ことに至った。

ディオは黒の闇であり、悪役であるし、

ブチャとジョルノたちは正義側だったことで、

後者はあがる物語であることからも勝利に至ったたが、

ディオにせよジョルノたちにせよ、

目的の意志を持って行動する『超人』であることが肝心であり、

結果は良くても悪くても問題ではない、ということかもしれません。

実際、5部はエピローグで運命の石を司るスコリッピが語ったように、

ブチャラティたち何人かが命を落とす過酷な運命を辿りますが、

しかし、彼らはその行き場なく生きづらい生において、

ブチャが昇天の際にジョルノに語ったように、

悔いなく行動し逝けた……つまり、人生が充実していた。

これこそが、

未人のように生きた屍として他者を傷つけて無為に生きるのではなく、

超人として意志を持って行動した結果であり、

このことからもジョジョニーチェ的に

人間はこうした『結果に依らず目的を持って行動する『超人』』たれ、

ということを描いていて、

その意味でも、

ディオや柱の男の究極生命体のように『人間を超える』

を描いていると思われます。

ジョジョは悪役も人間の在り方として肯定的であるので、

悪役すらも前向きであがっていく目的を持っている。

ただし、その方法論が他者を傷つけることを厭わない悪である)

その肉体的な超越は悪側のアプローチであり、

ジョジョたち主人公側は

正義の心と、行動する意志、

つまり『精神の力での既存の人間を超える』ことを

超人として描いていると思われます。

どうも荒木先生は、

同年代の『キン肉マン』のゆでたまご先生を意識して

漫画に本腰を入れたという自らの言葉があるように、

キン肉マンといえば超人であり、

そこから荒木先生も超人の要素を作品に忍ばせた、とか、

そして80年代前後は

ニーチェの超人思想の密かなブームでもあったのか?とも考えられ、

それで荒木先生もニーチェの超人に感銘を受けて作品に含ませたのだろうか?

と考えさせられます。

ジョジョの人間超えにはこういう背景、

ニーチェの思想との接点があった……のかもしれませんね。

……以上が、

ニーチェの超人論に触れて考えた、

ジョジョと5部に関しての考察でした。

加えてもう少し、5部についての思いつきを書いておきます。

これ、原作リアタイ当時から疑問だったのですが、

ここ最近でようやく自分なりの答えを導けたように思います。

ジョルノ・ジョバァーナの髪型の意味っていったい?

#jojo_anime

#ジョジョ

ふと思ったのですが、ジョルノの髪型、

コロネコロネとネタにされていますが、

あれってもしかして、

三つの穴⇒三穴⇒酸欠⇒息苦しい⇒生き辛い境遇

という意匠だったのではないか、と。

5部は行き場のない社会のはぐれもの、ギャングの少年たちを描いています。

だから、その主役たるジョルノに

その生き辛さの象徴的意匠を施したデザインが、

あの3連コロネの髪型だったのでは?

と考えます。

……ま、荒木先生のデザインセンスであり、

ファンの自分の深読みという線も大いにありますけれどね。

しかしそれでも、

これを読むどこかの誰かに、

「ベネ」

と希望になれたら幸いです。

では今回はここらで~チャオ。